ジョン・ボーナム
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ジョン・ヘンリー・ボーナム(John Henry Bonham, 1948年5月31日 - 1980年9月25日)は、イギリスのミュージシャン。ロックバンド、レッド・ツェッペリンのドラマーであった。 愛称は「ボンゾ」。
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[編集] 初期の経歴
ボーナムはウスターシャーのレディッチで生まれた。初めてドラムを学んだのは彼が五歳の時で、コンテナとコーヒー缶で作ったドラムセットを使い、彼のアイドルであったジーン・クルーパやバディ・リッチの様子を真似ていた。彼が本物のドラムセットを買ってもらったのは15歳の時であった。
ウィルトン・ハウス公立学校を卒業したボーナムは、建設業を営む父親ジャック・ボーナムの元で働きながら合間にバンドでドラムを叩いていた。1964年に彼は初めてのバンド、テリー・ウェブ・アンド・ザ・スパイダースに加わる。その時に後の妻となるパット・フィリップスとキダーミンスターで開かれたダンスパーティで出会っている。さらに彼はバーミンガムのローカルバンド、ザ・ブルー・スター・トリオや「シーズ・ア・モッド」のヒットシングルをリリースしたザ・セネターズなどでドラムを叩いた。ボーナムは様々なバンドで経験を積みながら、ドラムを本業にすることを決意する。二年後、彼はア・ウェイ・オブ・ライフに加入するが、バンドの活動は停止し収入も途絶えがちとなり、別のブルース・バンド、クローリング・キング・スネークに加入する。ボーナムはそこでロバート・プラントと出会う。この期間に彼はイギリスで最も大きな音を出すドラマーとして評判となり、しばしばドラムを打ち破りクラブからは演奏を止めるように頼まれた。
1967年、ア・ウェイ・オブ・ライフはボーナムにバンドに戻るよう頼むが、彼はプラントと定期的に連絡を取り合い、結局バンド・オブ・ジョイに参加することを決意する。バンド・オブ・ジョイは多くのデモを録音したが、アルバムをリリースすることはなかった。
1968年には、アメリカの歌手ティム・ローズがイギリス・ツアーを行い、バンド・オブ・ジョイを前座に起用した。ティム・ローズは別のツアーのため一ヶ月後に帰国することとなるが、その時ボーナムはローズに正式にバンドに誘われる。また、ジョー・コッカーやクリス・ファーロウもボーナムを自らのツアーバンドに勧誘することを考えていた。
[編集] レッド・ツェッペリン
ジミー・ペイジが、ヤードバーズの分解後バンドを継続しようとしたとき、ヴォーカリストの第一候補に考えていたのはテリー・リードであった。しかしながらリードはミッキー・モストとすでにソロ・シンガーとしての契約を済ませており、リードはペイジにロバート・プラントを紹介した。ペイジはドラムスにプロコル・ハルムのB・J・ウィルソンや、セッション・ドラマーのクレム・カッティーニ、エインズレー・ダンバーを考えていた。ジンジャー・ベイカーもペイジのリストにあったという噂もある。しかしながら、プラントの紹介で1968年7月に北ロンドンのハムステッドにおけるティム・ローズのステージでドラムを叩くボーナムに会ったペイジとピーター・グラントは、彼をバンドに加えることを即座に決め、契約書にサインをさせた。
ニュー・ヤードバーズとして1968年の9月に北欧を回り、その後レッド・ツェッペリンとしての最初のアメリカ・ツアーは12月に始まる。同ツアーでボーナムはバニラ・ファッジのカーマイン・アピスと友人となり、アピスはボーナムにラディックのドラムを紹介する。ボーナムはその経歴を通してラディックのドラムを愛用した。また彼は市販される最も重くて長いスティックを愛用し、彼はそれを「木 "trees"」と呼んだ。彼の特徴的なドラムスタイルは「移民の歌」や「レヴィー・ブレイク」「オーシャン」などで顕著に見られる。「カシミール」や「アウト・オン・タイルズ」では特徴的なリフで彼はクレジットされた。後期のアルバムではファンクやラテンの影響を受けたドラミングも見られた。 彼のドラムスタイルは以降のハードロック、ヘビーメタルバンドのドラマーには無論のこと、その他のジャンル、ポピュラー、ソウル、ファンク、ジャズのドラマーにも大きな影響を及ぼし続けている。(82年大ヒットしTOTOの代表作となった "Rossana" でジェフ・ポーカロが提示したシャッフルリズム・パターンは、その独自のグルーヴ感から "Toto Shuffle" または "Porcaro Shuffle" と呼ばれたのだが、後年教則ビデオ内でポーカロ自身が「このリズム・パターンはレッド・ツェッペリンの 「フール・イン・ザ・レイン」 でジョン・ボーナムがプレイしていたものが元アイデアなんだ」と語っている事は、ツェッペリン・ファンの間では案外と知られていない。)
[編集] 死
ボーナムは大変な愛妻家であり、良き父でもあった。余りにも家庭を愛していたが故に家や家族から離れて長いツアーを行うことを嫌っていた。彼はホームシックを紛らすために酒を飲んだが、その量は徐々に増加していた。また彼は重度の飛行機恐怖症でもあり、恐怖を紛らすために深酒をし、より状況は酷くなっていった。
1980年9月24日、ツェッペリンのアシスタント、レックス・キングはオールド・ハイド・ホテルでボーナムと落ち合い、近く行われるアメリカ・ツアーに向けてのリハーサルのためブライ・スタジオに向かおうとしていた。ボーナムとキングは途中でパブに立ち寄り、ボーナムはシングルの四倍のウォッカ四杯を飲み干し、スタジオに到着してからも酒を飲み続け酔いつぶれてしまった。リハーサル終了後、ウインザーのペイジ宅でパーティが行われたがそこでもボーナムは飲み続け、酔いつぶれてベッドに寝かされた。翌朝ツアー・マネージャーのベンジ・レフェヴレがベッドで死んでいるボーナムを発見した。吐瀉物を喉に詰まらせての窒息死であった。ジョン・ボーナムは1980年10月10日に彼の農場近くのラショック教区墓地に埋葬された。
[編集] エピソード
- *ファンタジー・シークエンス:映画『永遠の詩』の所々で挿入される各メンバーごとのイメージ映像のこと。メンバー中ボンゾのみが「ファンタジー」ではなく普通の生活の情景である。
- ボンゾがバンドに加入した折、旧友のジェフ・ベックと会ったペイジは内心得意満面で「新入りのドラマー」の音が入ったテープを聴かせた。果たしてその凄まじいドラミングを聴いたベックは涙を流して悔しがったという。
- ライブ中腹を壊し、腹痛と戦いながら演奏する羽目になり、腹痛ボンゾと語り継がれてしまう。
- 日本滞在時、日本刀を購入。ホテルで振り回したあげく、ペイジを驚かそうと壁を壊して隣の部屋に侵入。驚いた隣の客に対し、「すいません。逆(の隣)でした」。
- ツアー中の乱暴狼藉、イタズラの武勇伝(?)はメンバー随一である。わけても器物損壊に関しては枚挙に暇がなく、窓からテレビを投棄するのを始め、「部屋が狭いから」壁を壊してつなげる、すべての家具調度を逆さにして接着剤で天井にくっつけるなどして以後出入り禁止になったホテルもあった。
[編集] フィルモグラフィ
- Son of Dracula (1974)
- The Song Remains the Same (1976)
レッド・ツェッペリン |
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ジョン・ボーナム - ジョン・ポール・ジョーンズ - ジミー・ペイジ - ロバート・プラント |
オリジナルアルバム: レッド・ツェッペリン I - II - III - (IV) - 聖なる館 - フィジカル・グラフィティ - プレゼンス - 永遠の詩 (狂熱のライヴ) - イン・スルー・ジ・アウト・ドア - 最終楽章 (コーダ) |
その他のアルバム: ボックスセット - ボックスセット2 - リマスターズ - BBCライヴ - 伝説のライヴ |
映像: レッド・ツェッペリン狂熱のライヴ - レッド・ツェッペリン DVD |
楽曲: 「限りなき戦い」-「天国への階段」-「カシミール」 |
関連事項: ピーター・グラント - スワンソング・レコード |
カテゴリ: レッド・ツェッペリン | ドラマー | イギリスのミュージシャン | 1948年生 | 1980年没