ジュンガル
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ジュンガルは西モンゴリアに存在したオイラトの一部族。17世紀から18世紀にかけてオイラトの主導権を握り、イリ地方を本拠地に最後の遊牧帝国を築いたが、最終的に清の乾隆帝の親征軍に敗れて壊滅させられた。
ジュンガルはナイマン部の後継で元はチョロス部と言う。ジュンガルとはズーン・ガル、すなわちモンゴル語で左翼の意味であり、南面して中央、右翼(西方)、左翼(東方)の三部構造の伝統的遊牧国家構成をとるオイラト遊牧連合体の左翼を構成したチョロス部に、この名前が付いた。中国からは準部と呼ばれる。
かつてモンゴル遊牧連合体の中でアリクブケ系統のハーンを擁立するなどして大勢力を誇ったオイラトは、16世紀になるとダヤン・ハーンの系統のハーンを奉じるモンゴルに圧迫され勢力は振るわず、モンゴルに対しての貢納の義務を負わされていた。しかしジュンガルのバートル・ホンタイジが出て以後は次第に強勢となり、センゲを経てガルダンが首長になり、一気に強大となる。
ガルダンはセンゲの異母弟で、元はラマ教の僧としてダライラマ五世の下にいたのだが、センゲが殺された後にダライ・ラマの後押しを受けてジュンガルの首長となった。更にオイラト内の有力者を倒してオイラトの主導権を掌握したガルダンは1680年に天山南部(タリム盆地)のヤルカンド・ハン国を征服し、さらに1684年には西トルキスタンのタシケントやサイラームを奪取した。更にガルダンは東方モンゴル高原のハルハ部と対立し、これを打ち破ってハルハを侵略した。しかしこの事でハルハ部が清に対して救援を求め、康熙帝は親征軍を出してガルダンと対決した。
ジュンガル本国でガルダンの甥のツェワン・ラブタンが自立した事もあり、ガルダンは窮地に追い込まれる。1696年のジョーンモドの戦いで康熙帝軍に大敗し、逃走する途中で病死した。自殺ともいう。
その後のツェワン・ラブタンとその子のガルダン・ツェリンは清の雍正帝と戦い一進一退の攻防を繰り広げる。しかしガルダン・ツェリンの末期に激しい後継争いが起き、その隙を突いた乾隆帝は1755年ジュンガルの本拠地イリ地方に出兵し、1757年の再度の遠征によってジュンガル王国を完全に崩壊させた。ジュンガルが支配していた東トルキスタンは清朝の支配下に入り新疆と呼ばれるようになる。遊牧民族の騎馬軍団はすでに時代遅れになっており、大量の火器を使用する清軍には勝てなかったのである。
その後、ジュンガルの独立運動に手を焼いた清はオイラト全てを徹底的に殺戮し、同時に清軍が持ち込んだ天然痘によりオイラトの人数は激減し、ジュンガル部は壊滅した。