シネ・フィル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シネフィル(cinéfil-本来はcinéphile)とは映画通、映画狂を意味するフランス語。ciména(映画)とphil(「愛する」の意の接頭語)を語源とする造語。
単なる映画ファンや映画好きという意味合いではなく、「映画をこよなく愛する」「古今東西の映画を浴びるように見た経験を持つ」など、積極的かつ肯定的な意味合いで用いることが多い(逆に揶揄として用いられる場合もある)。単なるホラー映画だけのファンやアニメマニアをシネフィルとは呼ばない。
映画作家・映画監督達の多くはシネフィルとしての経歴を持ち、ヌーヴェルヴァーグの面々やマーティン・スコセッシ、デニス・ホッパー、ジム・ジャームッシュなどのアメリカン・ニューシネマ以降の作家達のシネフィルぶりは有名。クエンティン・タランティーノも一般にはシネフィル(映画通)として知られているが、彼の場合はその対象が東映ヤクザ映画や香港カンフー映画など、いわゆるB級映画に極端に偏っているため、本来的な意味でのシネフィルとは言い難い。
そもそも、シネフィルをこのような意味合いで用いたのは、アンドレ・バザンを元祖とするヌーヴェルヴァーグの批評家達である。彼らは「全ての映画は既に撮られてしまっており、自分たちが為し得るのは過去の映画の引用と反復でしかない」という明確な自意識と反省から映画を批評し、自ら制作した。従って、彼らにとっては古今東西の映画を見続けることは自明であると同時に自らの存在意義でもあった。その極北は映画史を語ることによって映画そのものを創り上げたゴダールの『映画史』であると言えよう。
しかし、こうした引用論は彼らのオリジナルではなく、マルセル・デュシャンのレディ・メイド作品「泉」(1917年)を出発点とする現代美術/芸術論にある。そもそも芸術は全て、過去の遺産の引用の織物であり、オリジナリティーなどというものはないと唱える主張だが、20世紀初頭にはこうした考えがあらゆる芸術領域に行き渡り、美術、音楽、文学などにおいて「引用の織物」説を前提とした様々な試みがなされた。1890年代の末期に誕生した映画はこの潮流に乗るには余りに若すぎたため、1950年代になってやっと「現代芸術の通過儀礼」を経験したと理解すべきであろう。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 映画 | 映画関連のスタブ項目