ココス諸島
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公用語 | 英語、マレー語 | |
首都 | ウェスト島のバンタム村(Bantam Village)。 | |
女王 | エリザベス2世 | |
総督 | ニール・ルーカス(Neil Lucas) | |
面積 - 総計 - 水面積率 |
14km² 極僅か |
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人口 - 総計(2004年) |
628人 |
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通貨 | オーストラリア・ドル | |
時間帯 | UTC+ 6:30 | |
ccTLD | .cc | |
国際電話番号 | -61-891 |
ココス諸島またはキーリング諸島(Cocos (Keeling) Islands)とはウェスト島、ホーム島、サウス島、ディレクション島、ホースバーグ島、プリズン島、ノースキーリング島など27のサンゴ礁の島からなるオーストラリア領の諸島。インド洋のオーストラリアとスリランカの中間にある。面積は14km²、主都はウェスト島のバンタム(Bantam)。人口は629人である。通貨はオーストラリア・ドル。
目次 |
[編集] 歴史
ココス諸島は東インド会社のウィリアム・キーリング(William Keeling)が1609年に発見したと考えられているが、彼の航海日記中には島の記述は存在しない。その前後に発刊された海図から、1606年から1622年の間に見出されたのは確実である。1826年にイギリス人、アレキサンダー・ヘアが約100人のマレー人を伴い最初にココス諸島に移住した。マレー人は子供が彼の身辺の世話、大人がココヤシのプランテーションに従事させられた。ジョン・クルーニーズ=ロス一行23人はその翌年、島にやってきた。(ヘアとロスが島に渡った時、ココヤシが生い茂るだけの無人島だったがココヤシの樹幹にアラビア文字が刻まれていたと言う。)ロスはヘアの部下だったが、結局、ロスがヘアを島から追い出し、ロスが島の領主となり、以後ロス一家が占領していた。1978年オーストラリア政府は5代目ジョン・セシル・クルーニーズ=ロスに6255万オーストラリア・ドルを支払い、島を正式にオーストラリア領とした。奴隷・囚人達の末裔はこれで最終的に自由になった。その金はそのまま島に寄付され、島人はこれを基金に1979年ココス諸島協同組合を結成し現在この組合が島を運営している。
[編集] 行政
ココス諸島はオーストラリアの領土である。行政官は、オーストラトリア総督によって任命され、総督はクリスマス島と共に管理しているニール・ルーカス(Neil Lucas)である。
[編集] 地理
ココス諸島は概略位置南緯12度10分、東経96度50分に位置し、最も近いクリスマス島でも約900km、スマトラ島から約1000kmの距離にある。南キーリング諸島と北キーリング諸島2つの環礁からなる。最高地点(サウス島北部)でも9mしかなく、ココヤシの木などが密生している。
[編集] 経済
ココナッツが唯一の換金作物で、環礁の至る所で栽培されている。外貨を稼ぐための切手の販売は1990年代に入って中止された。 またココス諸島は海底電線及びヨハネスバーグとシドニー間を結ぶ定期空路の中継地でもあり、 インド洋上での数少ない気象観測地でもある。
[編集] 住民
2005年現在、人が住む島はウェスト島とホーム島の2島だけである。ウェスト島はオーストラリアから来た白人が殆どである。ホーム島はココナッツのプランテーションの労働としてマレーシアから連れて来たマレー系の住民が殆どである。 マレー系が66%、オーストラリア系白人が33%でジャワ人や中国人もいる。 因みに、マレーシアのサバ州にココス諸島帰国者約1,000人余りがオイルパーム農園に従属してココス村を形成してかなり裕福に暮らしているらしい。
公用語は英語で、他にマレー語など。
宗教はイスラム教80%、ほかキリスト教。
[編集] 基本情報
1857年にイギリス領となり、オーストラリア領の承知年は1955年11月23日。英語名のCocos (Keeling) Islandsは、他のココス島と容易に区別できるように付けられた正式呼称である。 進化論のチャールズ・ダーウィンは1836年、ビーグル号でココス諸島に上陸し、サンゴ礁形態の仮説を発表している。 1914年、ディレクション島に設置されていたイギリスの無線基地の破壊作戦に、ドイツの軽巡洋艦エムデンが襲来。オーストラリアの軽巡洋艦シドニー等との戦闘の末、エムデンはノースキーリング島南岸に座礁した。