ケビン・シュワンツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケビン・シュワンツ(Kevin Schwantz, 1964年6月19日 - )は、アメリカ、テキサス州ヒューストン出身の元オートバイ・ロードレースライダー。1993年ロードレース世界選手権500ccチャンピオン。1988年から1995年までの8シーズンでGP通算25勝を記録した。
目次 |
[編集] スタイル
シュワンツの個性で際立つのは、ブレーキング・テクニックとされる。オープニングラップから2位以下に圧倒的なタイム差をつけての独走優勝というレースは少なく、終始接近戦を展開してのラストラップに繰り出すレイトブレーキング(コーナー進入時、ギリギリまで遅らせてブレーキをかける)でトップを奪い、僅差で勝利を手繰り寄せるスリリングなレースが多かった。
このレイトブレーキングは、接近戦でトップ争いの駆け引きを行う他のGPライダーにとっての脅威であり、シュワンツのレース運びの象徴でもあった。たとえば1991年 のオランダGP、シュワンツとトップを争うウェイン・レイニーは、僅差でレースをリードしながらも、ラストラップの最終シケインで痛恨のコースアウト。その脇を難なく走り抜けたシュワンツが勝利を奪った。レイニーはレース終了後のインタビューで、「シュワンツのブレーキングを警戒してミスをした」というコメントを残している。ただしコーナー前半で突っ込み勝負には勝っても、理想的なラインを走るレイニーがコーナー後半でシュワンツを抜き返すという場面もしばしば見られた。
シュワンツがレイトブレーキングを武器にしたのは、当時のスズキのマシンのパワーがヤマハ やホンダ に比べて低く、スピード不足を補うためにコーナーへの突っ込み速度を重視しなければならなかったため、という説も一部にある。非常に速いライダーと評価された反面、転倒リタイヤが多かったのは、マシン性能が劣勢だったせいという見方もある。'80年代末から'90年代半ばにかけて「最速」の評もありながら、シュワンツのライダータイトル獲得は'93年の1回のみに留まっている。
[編集] 経歴
WGP全戦エントリーの初シーズン1988年第1戦日本GP、前年チャンピオンのワイン・ガードナーと激しいトップ争いを展開し、劇的な初優勝を遂げる。このシーズンは雨のドイツGPでも優勝し、シーズン2勝を挙げランキング8位を得る。
当初は優勝か、転倒リタイヤするかという極端なレーススタイルで、とりわけ1989年シーズンは、タイトルを獲得したエディ・ローソンを上回る最多の6勝をマークするも、同数のリタイアを経験しランキング4位に止まった。一方でその豪快な走りや、シュワンツがトップ争いに加わったときのドラマティックなレース展開が強い印象を残し、多数のファンを獲得していった。
ウェイン・レイニーとのライバル関係はよく知られ、1989年日本GP、1991年ドイツGP、1993年日本GPなど数々の名勝負を繰り広げた。
しかし、レイニーが11ポイントリードで迎えた1993年第12戦イタリアGP決勝中、そのレイニーが転倒により選手生命を絶たれてしまう重症を負い、引退。シュワンツは順調にポイントを重ね、ポイントでレイニーを逆転、念願のタイトルを獲得する。だがレイニーをサーキット上で打ち負かし、勝利することを目標としてきたシュワンツは「彼の怪我が治るならチャンピオンなんかいらない。」と発言。初のタイトルを獲得した喜びの裏側でライバルを失った落胆に見舞われ、翌シーズン以降勝利へのモチベーションを次第に失っていくことになる。
翌1994年はチャンピオンの証であるゼッケン1(その中心部には彼の象徴ともいえる「34」が小さく記されていた)を掲げて連覇に挑むが、左手首の怪我という身体のダメージと、最大のライバル、レイニーを失った心のダメージに苦しみ、日本GPとイギリスGPでの2勝にとどまった。
最後の勝利となった1994年イギリスGPでは、破竹の勢いでポイントを積み上げるマイケル・ドゥーハンに対し、負傷した左腕をかばいながらも果敢にチャレンジを続け、得意のブレーキングでオーバーテイクに成功。得意とするドニントンパークで優勝し、最後の輝きを見せた。
1995年は第3戦日本GPを最後に欠場した後、第6戦イタリアGPにて引退を表明。このとき負傷していた左手首を眺めて目を潤ませながらも、どこか重圧から開放されたような清清しい姿を見せた。
[編集] エピソード
長年使用したゼッケン「34」はWGP初の永久欠番(最大排気量クラスのみ)となった。
同時代に活躍したエディ・ローソン、ワイン・ガードナー、ウェイン・レイニーとともに四強と称される。
引退後は一般ライダーを対象としたライディングスクール「ケビン・シュワンツ・スズキ・スクール(KSSS)」校長を務めている。
[編集] 戦績
- 1985年 - 鈴鹿8時間耐久オートバイレース・3位(グレーム・クロスビー/ヨシムラスズキ)
- 1986年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング22位(スズキ)
- 鈴鹿8時間耐久オートバイレース・3位(辻本聡/ヨシムラスズキ)
- 1987年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング16位(スズキRGV-γ)
- 鈴鹿8時間耐久オートバイレース・リタイア(大島行弥/ヨシムラスズキ)
- 1988年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング8位(スズキRGV-γ)
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース・2位(ダグ・ポーレン/ヨシムラスズキ)
- 1989年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング4位(スズキRGV-γ)
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース・8位(ダグ・ポーレン/ヨシムラスズキ)
- 1990年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング2位(スズキRGV-γ)
- 1991年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング3位(スズキRGV-γ)
- 1992年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング4位(スズキRGV-γ)
- 1993年 - ロードレース世界選手権500cc チャンピオン(スズキRGV-γ)
- 1994年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング4位(スズキRGV-γ)
- 1995年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング15位(スズキRGV-γ)
[編集] 外部リンク
- 500ccクラス世界チャンピオン
- 1993
-
- 先代:
- ウェイン・レイニー
- 次代:
- マイケル・ドゥーハン
カテゴリ: 1964年生 | アメリカ合衆国のライダー | テキサス州の人物