ギルバート諸島
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ギルバート諸島(Gilbert Islands)とは太平洋にある16の珊瑚礁の島及び環礁からなる、キリバス領の諸島。
ギルバート諸島にはヨーロッパ人が発見する数世紀前からミクロネシア人が住んでいた。
この諸島の最初の発見の記録は1765年、HMS DophinのCommander Byronによるニクナウの発見である。1788年にはHMS CharlotteのCaptain Thomas GilbertとHMS ScarboroughのCaptain John Marshallがアパママ(Apamama)、クリア、アラヌカ、タラワ、アベイアン、ブタリタリ、マキンを発見した。その後多くの船が中部太平洋の航海中にギルバート諸島を通った。United States Exploring Expeditionの2隻の船、ピーコック(Peacock)とフライングフィッシュ(Flying Fish)はcommand of Captain Hudsonのもと何度もギルバート諸島を訪れ多くの時間を費やして海図の作成に当たった。
1892年5月27日、HMS RoyalistのCaptain Davisによってイギリスの保護領と宣言された。1916年、ギルバート諸島はエリス諸島(現ツバル)と共にイギリスの植民地となった。
ギルバート諸島の原住民はミクロネシア人で、マーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島の原住民と多くの共通点がある。1942年の日本軍侵攻時、彼らは部族意識を持ち、イギリスの植民地政府に邪魔されずに自治を行っていた。彼らは日本の支配下に入ることに不満であり、日本はそれを変えられなかった。
1971年、植民地は自治権を持ち、1976年から1978年にエリス諸島が分離され、1979年にキリバスとして独立した。
ギルバート諸島の主要産業はオーシャン島(Ocean Island)とファニング島(Fanning Island)で採掘された鉱石からの燐酸肥料の生産である。加えて幾つかの島ではココヤシが栽培されている。
[編集] 第二次世界大戦
1941年12月に開戦すると日本はすぐにマキンおよびタラワに侵攻、12月10日には占領した。
1942年8月17日には、アメリカ軍がマキン島に奇襲攻撃を行った。これは第二海兵襲撃大隊の約220名の海兵隊員によるもので、潜水艦二隻に分乗し、島に潜入した。島を防衛する日本軍の第62警備隊マキン派遣隊(約70名)と交戦、日本軍は半数が戦死するなど大損害を受けたが、アメリカ軍は翌日に撤退した。この攻撃は、日本軍に島の防衛力強化の必要性を認識させた。
日本軍は1942年9月からタラワの守備隊を増強し、翌1943年中にタラワ環礁のベティオ(Betio)とマキン環礁のブタリタリ(Butaritari)に守備隊が置かれた。他のギルバート諸島の島にはほとんど兵力は配置されなかった。
1943年11月20日、アメリカ第二海兵師団がタラワとマキンに侵攻し占領した(タラワの戦い、マキンの戦い)。そして、ギルバート諸島は1944年2月のマーシャル諸島への侵攻の拠点に使われた。
[編集] ギルバート諸島の島・環礁
ギルバート諸島の島はほぼ南北に並んでいる。以下にアルファベット順に列挙する。
- アベイアン(Abaiang)
- アベママ(Abemama)
- アラヌカ(Aranuka)
- アロラエ(Arorae)
- ベル(Beru)
- ブタリタリ(Butaritari) (以前はマキンMakin)
- クリア(Kuria)
- マイアナ(Maiana)
- マキン(Makin) (以前はリトルマキンLittle Makin)
- マラケイ(Marakei)
- ニクナウ(Nikunau)
- ノノウチ(Nonouti)
- オノトア(Onotoa)
- タビテウエア(Tabiteuea)
- タマナ(Tamana)
- タラワ(Tarawa)