カール・マルテル
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カール・マルテル(Charles Martel、686年8月23日 – 741年10月22日)は、メロヴィング朝フランク王国の宮宰。カロリング家出身で、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝の進撃を食い止め、西ヨーロッパをイスラム教徒の手から救った功績が名高い。
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[編集] 経歴
[編集] 権力掌握まで
フランク王国の東北部にあたるアウストラシア(現在のドイツ南西部、フランス北東部、ベルギー、オランダ)の宮宰ピピン2世の子として生まれた。カロリング家は宮宰として代々メロヴィング朝宮廷の実権を握っていた。
714年に父のピピン2世が死ぬと、その妻(マルテルの母とは別人)であるプレクトルードからの指名により715年に後継のアウストラシア地域宮宰に就任した。その後、ネウストリア(現在フランスの大半)宮宰就任を宣言したいとこのラゲンフリートを破り、718年にフランク王国全体の宮宰となった。
[編集] ポワティエまで
その後は外征を開始し、王国北辺のフリージアやウェストファリアのサクソン人への遠征を行い、ラゲンフリート指揮によるネウストリアの反乱も抑えた。その間、720年には国王チルペリック2世が亡くなり、テウデリック3世が継いだが、マルテルの権力基盤は強化されていった。
しかし、国内の混乱に乗じて、南からウマイヤ朝の侵攻が相次いでいた。フランク軍は721年にはネウストリア西南部のトゥールーズでウマイヤ軍を破っていたが、現在のフランス南部はウマイヤ朝の支配下にあった。
732年にウマイヤ朝が再び侵攻し、イベリア知事のアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーの軍勢がボルドーを略奪してロワール川流域の重要都市トゥールに迫ると、マルテルはこれを迎撃した。両軍はポワティエ(現在のフランス中西部、ヴィエンヌ県の県都)の近郊で激突し、アル・ガーフィキーが戦死したウマイヤ軍は退却した。この結果、イスラム勢力による西ヨーロッパへの侵攻は食い止められ、後のレコンキスタへの基盤が作られた。歴史家のエドワード・ギボンは著書『ローマ帝国衰亡史』の中でマルテルを中世最高のプリンスと称えた。
[編集] ポワティエ後
トゥール・ポワティエ間の戦いでの勝利後もマルテルは積極的な外征を行った。ブルゴーニュにはブルグント王国を復活させ、ウマイヤ領の地中海沿岸のプロヴァンスやセプティマニア(現在のラングドック=ルシヨン地域圏)へ侵攻したが、イスラム勢力の抵抗も根強く、両者の攻防は一進一退であった。
737年に国王テウデリック3世が後継者指名をしないまま亡くなると、王位の空白期になった。既に王国の実権は完全にマルテルの手中にあり、国王が不在でも王国の運営には問題がなかった。
738年にはボニファティウスをライン川東岸でのカトリック信仰を統括するマインツ大司教に任命した。739年にはローマ教皇グレゴリウス3世から、ローマを脅かす北イタリアのランゴバルド王国討伐を依頼されたが、マルテルはこれを断った。ただし、フランク王国に対する教皇からの依頼は、マルテルの死後に果たされた。
741年、現在のフランス北東部、クワルジー・スー・ロワーズ(ピカデリー地域圏のエーヌ県)で死去した。遺体はパリ近郊のサン・ドニ修道院(現在のサン・ドニ大聖堂)へ葬られた。
マルテルの役職は当時のフランクの習慣に従って息子達へ分割相続されたが、その中から小ピピンが兄のカーロマンや異母弟のグリフォを抑えてフランク王国全体を統率し、751年には王位に就いてカロリング朝を開く事となった。
[編集] 名前の由来
彼の名、“マルテルMartell”は直訳すると“鎚”となるが、最近ではこのマルテルは固有名詞として目されることが一般的である。
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