カラー映画
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カラー映画(color film)とは、色彩が着色されて投影される映画のこと。
映画のカラー・フィルムは比較的最近(1930年代末、さらには1950年代)の発明に思えるかも知れない。しかし、実際は、映画にとって、カラーという選択肢は、サウンド(音)と同様に映画史の大変早い時期から開発され利用可能なものであった。リュミエール・プログラムに関するマキシム・ゴーリキーの見解は表象された世界が白黒であって、カラーではなかったということをその観客たちが確かに気づいていたことをわれわれに思い起こさせてくれる。
カラー撮影は、多くの困難な技術的な問題を映画製作者たちにもたらした。だが、サイレント映画の時代を通じてずっとカラーの着色や手彩色が盛んだったことから判るようにカラーが映画の初期から望まれていたことからも明らかである。
カラー撮影の原理は19世紀半ばからわかっており、また、映画のカラー・システムであるキネマカラー(Kinemacolor)は、いくつかの初期カラー映画に先立って1906年に特許を取っていた。しかし、初期のカラー映画には、撮影と映写のそのいずれか、またはそれぞれに、かなり技術的な問題があった。例えばキネマカラーは、白黒フィルムに色を付けるために赤青回転フィルターを使う2色加色方式であった。 1916年に映画に適用されたコダクローム(Kodachrome)は、映写におけるカラー方式でなく、フィルムの減色層によって白色光から不必要な色を除去する減色法であった。 同様に1920年代半ばに開発されたテクニカラーは、ビームスプリッターおよび赤と緑のネガを一緒に用いたものだった。総じて、色にまつわる諸問題およびメリットの少なさだけでなく、サウンドに適合させるには問題も多くコストもかかるために、メジャー・スタジオは、フィーチャー映画にカラーを用いることには余り関心を示さなかった。(ただ、ダグラス・フェアバンクスの映画『ダグラスの海賊』 (アルバート・バーカー監督、1926年)などの全編カラーの例外はある。) しかしテクニカラー社は短編映画を製作し、MGMとワーナー・ブラザースと共同で、短編映画および白黒映画(例えば、『ベン・ハー』(フレッド・ニブロ監督、1925年)、『オペラ座の怪人』(バート・ジュリアン監督、1925年)など)におけるカラー・シークエンスに取り組んだ。 また次にテクニカラー社は、3色工程を導入し、ウォルト・ディズニー社やパイオニア映画社などのインディペンデント系の会社と独占契約を結んだ。ウォルト・ディズニー社は漫画映画(例えば、シリーシンフォニー・シリーズや『白雪姫』)をカラー化する独占権を得、パイオニア映画社は最初の3色フィーチャー映画『虚栄の市』(ルーベン・マムーリアン監督、1937年)を公開した。この『虚栄の市』の次に、テクニカラー社はインディペンデント系のプロデューサー、デイヴィット・O・セルズニックに協力し、セルズニックのセルズニック・インターナショナル・ピクチャーズは、テクニカラーで映画を製作し成功した。その映画のうち1本が、最も注目すべき映画『風と共に去りぬ』(ヴィクター・フレミング監督、1939年)であった。
第二次世界大戦がカラーの完全普及を遅らせた(1947年には、アメリカのフューチャー映画のうちカラーで製作されたのは依然12パーセントだった)が、これらの映画における成功がカラーの将来性を効果的に立証していた。しかし、主にテレビとの競争によるプレッシャーのもとにあって、ハリウッドのカラーによる映画製作が半分を超えることは1950年代初めまでなかった。しかもその割合は、1950年代末にはわずか25%まで落ち込んでしまった。だが、メジャー・スタジオがテレビに映画を貸し出すことが一般的になり、また1960年代中頃にテレビ・ネットワークがカラー放送に切り替わると、その割合は再び上昇した。(1970年頃には94%になっていた)。テクニカラー社は、警戒して自社のカラー工程を秘密にしながら、カメラマン、カラー・コンサルタント、テクニカラー製作機材を提供し続けた。だが、1950年に反トラスト判決によって基本特許の公開を強制され、さらには他のカラー・システムも登場した。
特に注目すべきは、イーストマン・コダック社が1952年に導入した1本巻きネガのイーストマン・カラーである。イーストマン・カラーはテクニカラーと同じく3色減色工程を採用しているが、同一の感光乳剤に3種の染料を組み合わせ、現像とプリント工程でそれらを結合する点においてテクニカラーとは異なる。このことは、低コストのネガ使用によってコストが削減できることを意味した。このコスト削減は、1935年にはカラー撮影が製作費を30%増しにしたこと(ただ、カラーが興行収入に最大25%まで上乗せしうると予測された1949年には製作費を10%増しまで下がった)を考えれば大切な要素であった。メジャー・スタジオが開発したブランド(ワーナーカラー、メトロカラー、パテカラー)だけでなく、現像所が開発したブランド(ムービーラブ、デラックス、さらには何とテクニカラー)にいたるすべてが採用するほどイーストマンカラーは成功を収めた。
1955年以降は「テクニカラー」という名称は、3色の独立した染色ネガを作り出す工程を単に指すだけのものとなり、1970年代半ば以降は、テクニカラー社までもが、イーストマン・カラーベースのシステムに切り替えた。
ただ、1960年代には、テクニカラー工程による映像よりもイーストマン・カラーの方が色褪せしやすいということがわかり、フィルム・アーカイヴのフィルム保存にとって、新たな大問題が生じた。
カラー使用の度合いや性質、カラーの技術的な可能性、コストを始めとする要素などによって、映画製作者のカラー使用法は時と共に変化してきた。カラーフィルムがカラー(色)を正確に記録できる日は来ないだろう。だが、過去100年間におけるカラーフィルムの改良が、映りを決定的に変えて、より緻密で自然なカラーを生み出すこと、すなわちリアリズムの進化を全般的な目標としていたとは言えるだろう。カラーは、ドラマやコメディよりも、冒険映画やミュージカルに適していると最初は考えられていた。すなわちカラーは、比較的様式化された方法、派手な方法、あるいは、人工的な方法で使用されると考えられがちだったのである。
現在では米国および他国の映画ではカラーの方がより自然と見えるのが一般的な傾向である。白黒がかつてそうであった(今でもある程度はその可能性はある)ように、たいていの場合カラーがリアル(現実的)を意味するようになったということかも知れない。
一般的に言ってカラーは少し遅れて、ヨーロッパおよび日本などの映画製作国に普及した。1950年代、1960年代の芸術映画は、白黒映画としばしば関係があり、カラーを使ったポピュラー映画とは対照的であった。しかし、1960年代初めには、ジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、イングマール・ベルイマン、ミケランジェロ・アントニオーニといった映画製作者たちが初めてカラー映画を製作し、あるいは表現力に富むカラー使用の可能性を何度も探究した。