カタリーナ・コルナーロ
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カテリーナ・コルナーロ(Caterina Cornaro, 1454年 - 1510年7月10日)は、キプロス国王ジャック2世の妻。キプロス王妃。
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[編集] 生涯
[編集] キプロス王ジャック2世との結婚
カテリーナは、1454年、ヴェネツィア貴族マルコ・コルナーロの娘として生まれた。
1472年に、カテリーナはヴェネツィア共和国の養女という身分で、キプロス王国の国王ジャック2世に嫁いだ。大変な美女であった彼女の姿を人々が見ると、「アプロディテが島に戻って来た」という声が漏れたという。彼女は、キプロスの国民から敬愛されるようになった。
カテリーナの夫ジャック2世のリュジニャン家は、十字軍の名門の家柄だった。ジャックは、ジャン2世とマリエッタ・ド・パトラスとの間に生まれた庶子だった。ジャン2世と王妃ヘレナとの間には、ジャックの異母妹のシャルロットが生まれており、キプロス王国は、嫡出子のシャルロットが継ぐという遺言を国王は残していた。1458年にシャルロットは、聖ソフィア大聖堂でキプロス女王として即位し、翌年、サヴォイア公子ルイージと結婚した。
ジャン2世は、ジャックがニコシアの大司教になるよう取り決めていたが、野心家だったジャックはこれに従わなかった。そして1459年にはエジプトのマムルーク朝のスルタンに、男子である自分の王位継承の正当性を訴えた。また、彼はヴェネツィア共和国にも同様に訴えた。そして彼は、両国からの承認を得た。1460年、ジャックは、マムルークの護衛隊に守られながら、エジプト艦隊でキプロスに戻った。彼の帰還を知ったシャルロットとルイージは、セリーヌの城砦に避難した。その後、3年間にわたって彼らは抵抗を続けた。2人はロードス島の聖ヨハネ騎士団にも支援を求めた。
キプロスに戻った彼らは1462年にパフォスの城を獲得したが、翌年すぐに、ジャックによって奪還された。1464年にシャルロットは今度はローマ教皇庁に支援を求め、キプロスを去る。ジャックはジャック2世として即位した。しかし、ジャックとカテリーナの結婚生活は1年しか続かなかった。国王は1473年の5月27日から病気にかかり、6月11日に死去してしまった。
[編集] ジャック2世死後の争い
ジャック2世は、「もし、カテリーナに男子が生まれれば、その子がキプロスの王位を継承する、もしその子が女子かまたは死亡した場合は、自分の2人の庶子の内、年長の方が王位を継ぐ事、もし彼ら全てが死亡した場合は、リュジニャン家の内、自分に近い関係がある者が継承する。以上のどのような場合においても、王妃カテリーナは、その死までキプロス主長としての権利を有する」という内容の遺言を残した。さらに、カテリーナの補佐をする摂政として、彼女の叔父のアンドレア・コルナーロが任命されていた。廷臣達は彼らを助けてキプロスの統治を行なっていく事とも遺言されていた。しかし、廷臣達は、王妃を助けるという名目で、キプロス王国の中で日に日に勢力を拡大しようとする、ヴェネツィア人達に不信感と警戒感を抱いた。さらにキプロス島の外では、ジャックによって王位を追われたシャルロットが、再び王位奪還に向けて、動き始めていた。
彼女は滞在先のロードス島から、エジプトのスルタンに大使を派遣した。そしてシャルロットは、ジャックが死去した今、キプロス王国の正当な統治者は自分であると主張し、自分をキプロス女王として承認する事を求めた。しかし、スルタンは当時エジプトと交易関係にあり、レヴァンテの海において強い海軍力を持っていたヴェネツィアと敵対する事は避けたかった。このため、彼はシャルロットをキプロス女王として認めることを拒否した。そして彼はシャルロットからの大使とほぼ同時期に到着した、カテリーナからの大使を引見した。これは、キプロス王国前女王であるシャルロットではなく、キプロス王国王妃にしてキプロス主長のカテリーナを正当なキプロス統治者として認めた事を意味していた。しかし、なおもシャルロットはあきらめなかった。
次に彼女は、ロードス島近海にいたヴェネツィア艦隊提督ピエトロ・モチェニーゴにも、スルタンに対してした時と同様の主張をした。しかし、彼も、キプロス前女王はジャックが庶子でありながら不当にキプロスを統治していたと言うが、ジャックはスルタンから正当なキプロス国王として承認されていた王である。そして自分は前女王の領地よりも、主人であるカテリーナ王妃を助けるために本国から派遣されたとして、シャルロットの主張を認めなかった。そして、彼はこのやり取りをカテリーナに報告した。彼女はピエトロに感謝し、彼は艦隊に再び戻っていった。しかし、シャルロットの廷臣達は、8月15日頃、セリーヌの民が行なう巡礼の時を狙い、陰謀を起こす事を画策した。彼らは、巡礼団という口実の下に城を占領しようとしたが、この企ては失敗した。
[編集] ファマゴスタの乱
カテリーナは1473年8月28日にジャック3世を生んだ。11月13日に、ファマゴスタの乱が起きた。
これはニコシアの大司教ルイ・ペレーズ・ファーブルグと、ナポリ王フェルディナンド1世が関わって進められた陰謀だった。この陰謀の目的は、摂政会議の中のヴェネツィア人を殺害する、キプロス島駐在のヴェネツィア海軍の武装解除、キプロスに駐在しているヴェネツィア政府関係者の追放、王妃カテリーナの権限を剥奪し、ジャック2世の庶子の王女であるシャルラとフェルディナンド1世の息子アルフォンソとの結婚、ならびにアルフォンソにはやがてキプロス女王になるシャルラの夫という事で、女王の夫君の「プリンチペ・ディ・ガリレア」の身分を与える事を、彼女に認めさせる事だった。陰謀者達は大きく二派に別れていた。一派は、ナポリ王の後援を受けた大司教と、ジャック2世に当初から従っていた、リッツォ・デ・マリンらキプロス宮廷新参の家臣達。他の一派は、以前はシャルロット派であったが、後にジャック2世に臣従した重臣達で、彼らはジャックの死後、前女王シャルロットとの間で連絡を再開していた。
13日の夜中3時、突然大司教とリッツォがカテリーナの部屋に入ってきた。眠っていた所に突然押し入られ、驚きと恐怖で彼女が声も出ない時、カテリーナを守ろうとした医者ガブリエロ・ジェンティーレが彼女の目前で殺された。時を同じくして、異変を察知し王妃の所に急行した、アンドレア・コルナーロとその甥のマルコ・ベンボも、王宮に入った所でリッツォに殺された。
カテリーナは連れ去られ、生まれて間もない幼王ジャック3世は、陰謀者達によって母親から引き離され、ジャック2世の母であるマリエッタの許に預けられた。2人は人質にされてしまった。この状態の中で、カテリーナは、ファマゴスタ港外に停泊していたナポリのガレー船に連れて行かれ、フェルディナンド1世の特使と会見させられた。
彼女は陰謀者達から、キプロス王女シャルラとナポリ王子アルフォンソとの結婚、アルフォンソにプリンチペ・ディ・ガリレアの称号を与える事、さらにアンドレア・コルナーロ達の殺害は、日頃からの彼の強欲さに対する個人的な復讐であり、政治的な暗殺ではない事を、ヴェネツィアに向けて王妃カテリーナ直筆の手紙で説明する事を強制された。実際、キプロスの砂糖は東洋での最高級品とされていて、この農園からの莫大な収入を期待し、アンドレアは姪のカテリーナとジャック2世との結婚を、下心を持って歓迎していた。彼女は、叔父の暗殺については彼らの言う通りの手紙を書いたが、シャルラとアルフォンソの結婚と彼らにキプロスの王位継承権を譲り渡す事は、拒否した。それでもこの彼女の妥協は、息子に対する心配があったからだった。ヴェネツィア政府も、この反乱に気づいたが、王妃カテリーナとジャック3世を人質に取られていたため、手の打ちようがなく、ヴェネツィアのガレー艦隊とナポリの2艘のガレー船は、ファマゴスタ港外でにらみ合いの状態となった。
この間、陰謀者達は国民が信頼し、彼らに人気のある王妃が自由の身である事を示すため、12月5日にカテリーナを馬に乗せて広場をまわり、教会にまで行かせた。ヴェネツィア側は、好機の訪れを窺った。12月15日、陰謀者側の内部対立が表面化した。以前からのキプロス王家の重臣で、いまだにシャルロットの女王復帰を画策するロシャス伯、トリポリ伯ジャン・タフュールの一派と、ジャック2世にそのカイロ逃亡時から従い、国王の死後ナポリ王と提携して、ヴェネツィアの勢力を排除していこうとする、リッツォら新参の廷臣達との間の対立が激化していた。この分裂を見逃さなかったヴェネツィア政府は、提督ピエトロと連絡をとり、12月31日、700のヴェネツィア兵がファマゴスタに上陸した。カテリーナは救出された。
キプロス国民の多数は王妃に忠誠を誓っており、彼らの賛同を得られなかったリッツォ、ロシャス伯、トリポリ伯はナポリのガレー船で逃亡した方が得策と判断した。彼らは、以後ファマグーストに停泊する事になるヴェネツィアのガレー船が到着すると、ジャック3世をカテリーナに返した。カテリーナは、1474年1月3日に、陰謀に荷担した者を全て許すという事、そして何人もいかなる方法によっても彼らを痛めつけてはならぬと発表した。しかし、逃亡者はその限りではなく、逃げ遅れた者達は処刑された。しかし、ニコシアの大司教は聖職者であり、極刑にする事は不可能だったため、ヴェネツィア政府は理由を付けて彼をヴェネツィアへ護送してしまった。
[編集] ヴェネツィアの干渉
反乱は終わった。しかし、この反乱を名目として、ヴェネツィア政府は将来のキプロス王国併合をも視野に入れた、キプロスへの内政干渉を開始した。ファマゴスタの乱に対してヴェネツィアが行なった武力介入は、キプロス王妃カテリーナの要請を受けてのものではなかった。また、キプロス王国の廷臣達も誰一人として、ヴェネツィア軍に援助を要請してはいなかった。ヴェネツィア共和国の養女としてカテリーナがジャック2世と結婚した時の契約の1つである、キプロス王国を外敵から守るという契約を盾にとった、ヴェネツィア側の独断介入であった。武装したガレー艦隊をファマゴスタ港内に停留させながら決定した、ヴェネツィアによるキプロス王国への内政干渉は、徹底していた。
内政に関しては、以後、キプロス王国は、その王室以外、ヴェネツィアの他の植民地と同じ政治機構を受け入れる。すなわち国王ジャック3世と王妃カテリーナの下には、王妃の執政を助けるため、2人の行政官が評議員の官名で設置される。彼らは一人ずつ二年おきに交代する。その他にこれも2年の任期の、実際の行政を担当する行政官と領事を1人ずつ設置する。
財政担当は2人の財務官が、軍事その他のキプロス国内の最高決定は1人の幕僚長ソランツォが執り行う。さらにキプロス第1の港ファマゴスタの警備担当として隊長を1人配置する。この8人のヴェネツィアから派遣されるヴェネツィア人によって、キプロスの政治・経済・軍事は、ヴェネツィア共和国の支配を受ける事になった。ヴェネツィア政府は、キプロスに派遣するこの8人に対して、国民に対するいかなる布告をも、あくまでも王妃カテリーナの名によって行なうよう厳命を与えた。ヴェネツィアが、新しくキプロスに導入した制度は、クレタ島など他のヴェネツィア共和国の植民地の行政組織とほぼ同じだった。事実上の、キプロス王国の完全な植民地化だった。
軍事面においては、ピエトロの後任の新提督グリッティには、モドネ、クレタ両海軍基地から、常にキプロスの情勢に対する注意を怠らない事。もし何かが起きた時は、早急にキプロスに直行できるよう常に備えておく事。変事を察知した時には、本国政府に報告せずに、全て提督個人の判断で行動できる全権限を提督は持つものとする。これ以降の15年間にわたる、法的には何の正当性もないヴェネツィア政府のやり方に対し、諸外国はヴェネツィアを非難する事になった。
[編集] ジャック3世の死後
1474年8月26日、病弱だったジャック3世は病死した。国王が死去した後、再びキプロス各地で騒動が起き始めた。国民達の大部分は、カテリーナを支持していたが、それでもキプロスの独立が脅かされる不安から、国内で権力を握っているヴェネツィア人達への反感は根強いものがあった。キプロス宮廷の廷臣達の大部分は反カテリーナ派だった。彼らはヴェネツィア人の王妃の名の下に、ますます勢力を強くするヴェネツィア人達やヴェネツィア政府によって、植民地化が進められていくキプロスの将来を心配していた。しかし、依然としてキプロス王家累代の重臣達は、この機会に前女王シャルロットを擁立しようとし、先王ジャック2世直属の新参の廷臣達は、彼の庶子である王子を擁立しようとした。このような状態で彼らは統一した行動を取る事ができず、あちこちで小競り合いが起きた程度に終わった。
しばらくした後、キプロス王国の重臣の1人を、ヴェネツィア政府はカテリーナの名によって、ヴェネツィアに連行させた。そしてまた別の1人は国外へ追放された。この事件によるキプロスの動揺が静まらない10月末、ヴェネツィア共和国元老院は、ナポリ、ミラノ、ローマへ特使を派遣し、公式にジャック3世の死を知らせると共に「国王の死後も、引き続き、ヴェネツィア共和国は、トルコ、エジプトの異教徒の脅威から、またその他のあらゆる反逆行為からも、キプロス王国を守る覚悟である」と宣告した。ローマ教皇庁は、ナポリ王国、ミラノ公国とは違い、キプロスに対して直接の野心を抱いていなかったため、表面的には賛同の返事をした。しかし、実の所はキプロスがローマ教会と一線を画し、ローマ教皇庁の意のままにならないヴェネツィアの手に落ちるよりも、教会と良好な関係にある個人か、または国に支配される事を望んでいたのだった。
ヴェネツィア大使に賛同の返事を与えておきながら、ナポリとローマは秘密裡に連絡をとり、反ヴェネツィアの方向に向かおうとした。この2国の動きをいち早く察知したヴェネツィア政府は、キプロス駐在の幕僚長ソランツォに、ヴェネツィア・ガレー艦隊による、キプロス島周辺の海上を封鎖する事、これからはキプロスに常駐させる幕僚長は2人とし、常に王妃の側を離れずキプロスの執政を執り行う事。またキプロス全島の城砦は、ヴェネツィアに完全に忠実な者の手にだけ任せる事」との厳命を下した。この指令に従い、キプロス近海の海上には、15隻のヴェネツィア・ガレー船が常駐する事になった。結果として、キプロスの港に入ってくる船は、ほとんどヴェネツィアの軍船か商船だけになってしまった。
[編集] 傀儡となったカテリーナ
カテリーナは、王妃や首長とは名ばかりの存在で、全く実権を与えられていなかった。キプロス国民に対する全布告は、ヴェネツィア行政官達が作成し、カテリーナはただそれに署名するだけだった。また、彼女宛てに送られてくる公式文書も、まず行政官達に回す事になっており、その後、カテリーナの所に戻ってはこなかった。また、キプロス人に対する賞罰も、王妃であり首長であるはずの彼女を無視して行なわれた。
さらに、カテリーナが自由に使えるはずの1万デュカーティの年金さえ自由に使わせてもらえず、かろうじて自由になる金額は10デュカーティ以下で、彼女は2人の召使と食事をするだけで、王妃としての公式の宴も持てず、ミサに行くための行列さえ整えられない有様だった。ヴェネツィアには、王妃カテリーナの尊厳と権利を保証し、キプロスの人々の自由を尊重するつもりは微塵もなかった。カテリーナは、自分が何の実権も持たない、ヴェネツィアの操り人形に過ぎない存在である事について、深く悩んでいた。
1474年に、カテリーナの父のマルコ・コルナーロがキプロスにやって来た。父の来訪により勇気づけられたカテリーナは、1475年の4月14日に、ヴェネツィア政府宛てに自分の待遇改善を求める手紙を書いた。彼女はまだ祖国ヴェネツィアを信頼しており、彼らの養女である自分が直に自分の気持ちを伝えれば、きっと理解してくれるはずだと思っていた。何のためにヴェネツィア政府が自分を養女としたのかに気づいていなかった。さらに彼女は手紙にヴェネツィア人の行政官が私服を肥やしている事、その一例としてキプロスの自由民を奴隷商人に売り飛ばすと言って捕らえ、彼らを自由にする代わりとして、彼らから多額の金銭を受け取っている事実がある事、これでは国民に恐怖を与えるだけではなく、キプロス王国の経済を破滅に追いやるものである。また王妃の自分でさえも、キプロス国内を歩き回る自由も与えられず、王妃の尊厳を傷つけられるどころか、これでは奴隷と何ら変わらないという事も書いた。また、マルコも娘の待遇改善を訴える手紙を書いた。この父娘双方の訴えを聞いたヴェネツィア政府は、王妃に年金8000デュカーティを保証しただけで、彼らのその他の訴えは聞き入れようとはしなかった。それどころか、カテリーナが特定の男性と親しくならぬように、彼女を厳重に監視させるようにした。
[編集] キプロス王族の連行
1476年の10月には、ヴェネツィア政府はマリエッタ・ド・パトラスとジャック2世の庶子の2人の王子、シャルラ王女たち先王の家族と、トリポリ伯、リッツォ・デ・マリンら8人の重臣の家族を、人質としてヴェネツィアに送る事を決定した。少なくともまだ表面上は独立国家であるはずのキプロスで、しかも王族と重臣の家族達をヴェネツィアの人質にするという決定は、キプロス全土を恐怖に陥れた。驚き恐れるカテリーナの嘆願にも、人質を連れていくためにキプロスに派遣された提督ロレダンは、耳を貸そうとしなかった。人質にされた人々は、翌年の1月にヴェネツィアに到着した。
ジャック2世の母と子供達は、キプロスでの砂糖の売上金を生活費の一部として、ヴェネツィア市内の修道院に住む事になった。重臣の家族達の方は、自費でヴェネツィア市内に住まわされ、市外に出る事も禁止された。
彼らはヴェネツィア政府の厳重な監視下に置かれた。王子たち2人はその後下婢と結婚し、ヴェネツィア下層民として一生を終えた。しかし、フェルディナンド1世に再三自由獲得を要求したシャルラ王女は2年後の1479年にパドヴァの修道院で死去したとヴェネツィア政府は発表したが、彼女の死因は明らかではない。1475年から、フェルディナンド1世とスルタンの援助を取り付けたシャルロットが、1479年には、キプロスの数人の廷臣と連絡をとり、国内で反乱を起こす計画を立てたが、反乱計画は事前に発覚し、陰謀者達は提督ロレダンの拷問と尋問により全てを白状し、反乱予定日に全員絞首刑に処された。この失敗は、実に18年間、ロードス島、ローマ、全イタリア、最後にはエジプトまで訪れて、王位復帰のために精力的に行動し続けたシャルロットの意志までも、挫く事となった。ナポリ王、スルタンに見放された彼女は、貧窮生活の中、ローマで死去した。
彼女の夫のルイージは、彼とシャルロットがジャック2世に敗れた1464年に、サヴォイア公国に帰ってしまい、そのまま彼女とは別居状態のまま、会う事もなくなっていた。1487年、ヴェネツィアは今までは自国の養女であるカテリーナの統治するキプロスをトルコ・エジプトその他の外敵から守る事を大義名分に、実際は完全な内政干渉であるのをあくまで王妃カテリーナの補佐をするという形に見せかけ、キプロス併合の意図を隠していたが、ついにキプロス併合を正式に決定し、後は時期を見計らう事にした。
[編集] ナポリ王フェルディナンドの野心
1487年、フェルディナンド1世はまだキプロスへの野心を捨てておらず、カテリーナと息子のアルフォンソとの結婚を画策した。これには、リッツォ・デ・マリンとキプロス貴族のトリスタン・ジブレも協力する意志を示した。リッツォはヴェネツィア政府の厳しい追及をかわしながら、ナポリ、カイロ、ロードス島の有力者達の間を回り、キプロスからヴェネツィア人を駆逐する事をあきらめていなかった。それは、彼の家族達が人質にとられて連れ去られても変わらなかった。彼にはカテリーナの承諾を得る事、カイロのスルタンからこの計画への賛同と協力を得る役目が与えられた。彼女の承諾が得られしだい、ナポリとアレクサンドリアから軍船がキプロスに急行し、それを背景に至急結婚式が行なわれる手筈になっていた。
1488年、エジプトに向かったリッツォは、この計画に対するスルタンの全面的な賛同を得る事ができた。リッツォは次いでキプロスにも向かい、カテリーナの賛同をも得る事にも、成功した。彼女は初めはヴェネツィアの敵国であるナポリの王子と結婚する事にためらいを感じたが、カテリーナはこの15年間、結婚して間もなく夫を亡くし、相次ぐ陰謀と自分が信頼していたヴェネツィア共和国の干渉に悩まされ続け、相談できる相手は誰もいない苦しい状態であった。彼女は自分ひとりではとてもこの難局を乗り越える自信がなく、強国ナポリの若い王子アルフォンソを頼もしく感じるようになっていき、この結婚を決意した。
しかし、またしてもこの計画はヴェネツィアに察知され、計画は失敗した。リッツォとトリスタンは提督プリウリの厳しい拷問と尋問を受けた末に、陰謀を自白した。トリスタンはヴェネツィアに連行される途中のガレー船の中で、ダイヤモンドの粉を飲んで自殺した。リッツォはそのままヴェネツィアに連行され、投獄された後、1491年の冬に絞首刑に処された。
[編集] 退位
1489年に、カテリーナは計画の失敗を侍女のエレナから聞かされ、全てが終わった事を知った。次いで、1492年の1月には、プリウリからヴェネツィア政府がキプロス併合を正式に決定し、カテリーナに退位してもらいたい意向を伝えた。彼女はこれに同意し、キプロス王国をヴェネツィアに譲渡した。そしてファマゴスタで2月26日に退位した。その後、ヴェネツィアに戻ったカテリーナは、アーゾロで、小規模な宮廷を持ち、文学や芸術について人々と語り合った。だが、これは作家マルセル・ブリオンの創作で、カテリーナは実際は、ますます信仰心を深くし、生涯の大半を隠遁の中に過すようになった。ある日、彼女はキプロスへの郷愁からキプロスの殉教者で聖人の聖アメティストの貴重な聖遺物を買い求めた。ヴェネツィアに戻ってからも、キプロス国民が独立の象徴としてカテリーナを担ぎ出す事を危惧したヴェネツィア政府によって、彼女は依然として監視され続けていた。1510年の7月10日、カテリーナは死去した。