インノケンティウス10世 (ローマ教皇)
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インノケンティウス10世(Innocentius X,1574年5月6日-1655年1月7日)はローマ教皇(在位,1644年-1655年)。本名はジョバンニ・バッティスタ・パンフィリ(Giovanni Battista Pamphili)。前教皇の方針を確認し、ジャンセニスムを弾劾した。
[編集] 生涯
ローマ出身のパンフィリは、1629年枢機卿に選ばれ、1644年の教皇選挙においてフランスの枢機卿団の後押しで教皇位につき、インノケンティウス10世を名乗った。彼はもともと法学者で、教皇庁では主に外交の分野で目覚しい業績をあげていた。
ウルバヌス8世没後の教皇選挙は混乱を極めた。スペインの枢機卿団とマザランに率いられたフランスの枢機卿団が激しく対立したためであった。長引く選挙についにフランス側が妥協案としてパンフィリの教皇選出で合意し、パンフィリがインノケンティウス10世を名乗って新教皇となった。
教皇は手始めに前教皇の一族バルベリーニ家の弾劾から始めた。フランチェスコ・バルベリーニとアントニオ・バルベリーニの兄弟が教皇庁財産の横領容疑で訴えられた。二人はフランスに逃れ、教皇庁と対立していたフランスのマザラン枢機卿の庇護を受けた。ローマにあったバルベリーニ家の財産は没収され、教皇は六ヶ月以上教皇の許可なくローマを離れた枢機卿は特権を奪われ、枢機卿位自体も奪われる可能性があるとした勅書を発行したが、フランスは教皇命令がフランスにおいて無効であることを宣言した。インノケンティウス10世はこのフランスの恫喝にも妥協しなかったが、フランス軍が出動の姿勢を見せると、ついに妥協に追い込まれ、フランスの後援によってバルベリーニ兄弟はローマに戻ることができた。
インノケンティウス10世の統治に大きな影響を与えたのは義妹オリンピア・マイダルキナであった。欲深い彼女の存在が有象無象の噂や中傷を生み出した。教皇自身は改革の志はもっていたが、このオリンピアの存在によって教皇の評価には泥が塗られる結果となった。
またウェストファリア条約によって教会の権利が侵害されたことに使節を派遣して抗議し、無視されると1648年の回勅『ゼロ・ドムス・デイ』で激しく抗議した。また、特筆すべきは前教皇が断罪したコルネリウス・ヤンセンの著作『アウグスティヌス』について、彼自身が任命した委員会に二年にわたって十分の討議と検討をさせた結果、五箇条の命題を誤謬としてあらためて弾劾したことである。以後ジャンセニスムと教皇庁の長い戦いが続くことになる。
また、教皇はパトロンとして建築家ボッロミーニ、ベルニーニを援助し、種々の建築をおこなわせた。ナヴォーナ広場に有名な四大河の噴水が築かれたのは彼の時代であった。