インターグシケン
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性別 | 牡 |
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毛色 | 青鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1975年5月25日 |
死没 | 1988年8月24日 |
父 | テスコボーイ |
母 | キョウエイパンセ |
生産 | 高村秀司 |
生国 | 日本(北海道様似町) |
馬主 | 松岡正雄 |
調教師 | 日迫清(栗東) → 日迫良一(栗東) → 久保田金造(美浦) |
競走成績 | 22戦7勝 |
獲得賞金 | 2億503万8700円 |
インターグシケンは、日本の競走馬。 第39回菊花賞優勝馬。主戦騎手は『ターフの魔術師』武邦彦。 因みに、馬名の由来は当時のWBA世界ジュニアフライ級チャンピオン・具志堅用高からである。
目次 |
[編集] 戦績
1977年6月、札幌競馬場で折り返しの新馬戦で初勝利を挙げた。 ダートのオープン戦は勝ちきれなかったが、コースが芝に変わると、京都1600メートルでレコード勝ちを収めるなど頭角を表し始める。 しかし重賞では、デイリー杯3歳ステークス、阪神3歳ステークスで共に2着とするなど、バンブトンコートに歯が立たなかった。
4歳となり、きさらぎ賞で初重賞制覇を飾るも、皐月賞は、追い込み届かずファンタストにクビ差の2着と惜敗。 この後NHK杯を制し、主役不在のため戦国ダービーと呼ばれた東京優駿臨んだ。 インターグシケンも3番人気に推されるなど戴冠のチャンスも十分と目されたが、直線で伸びを欠きサクラショウリの6着に敗れ、初めて掲示板を外した。
休養をはさんで秋を迎えても、オープン戦・京都新聞杯と2戦続いてメジロイーグルの後塵を拝すなど勝ちきれないレースが続いた。 本番の菊花賞では単枠指定されたサクラショウリが抜けた人気となり、インターグシケンは3番人気。 レースは、チェリーリュウが玉砕覚悟の逃げをうったことでハイペースで推移する中、中団で折り合いをつけて脚をため直線で早めに先頭に立ったサクラショウリ以下を一気に交わし、キャプテンナムラを半馬身抑えレコードで菊花賞制覇を飾った。
5歳初戦となった金杯(西)では、61キロの斤量を背負いながら鋭い差し脚でアイノクレスピンを差し切るなど、かつての勝負弱さを克服し本格化を遂げたと周囲に印象付けた。 しかし、この後脚部不安を発症し長期休養を余儀なくされる。 復帰にはこぎつけたもののその後は2戦したのみで、この年の有馬記念でグリーングラスの13着となったのを最後に引退、種牡馬入りした。
[編集] 引退後
引退後は、インターナショナル牧場で種牡馬となり、オープンで活躍した馬を多数輩出するなど、まずまずの種牡馬成績をあげた。 1988年8月、馬房で倒れているのを発見されたが、すでに息絶えていた。心臓疾患による急死だった。
[編集] 代表産駒
[編集] 競走成績
1977年(9戦4勝)
- 2着 - 阪神3歳ステークス、デイリー杯3歳ステークス
1978年(11戦4勝)
- 菊花賞、NHK杯、きさらぎ賞
- 2着 - 皐月賞
1979年(3戦1勝)
- 金杯(西)
[編集] 血統表
インターグシケンの血統 プリンスリーギフト系(ナスルーラ系)/Solario5×5=6.25% | |||
父
*テスコボーイ Tesco Boy 1963 黒鹿毛 |
Princely Gift 1951 鹿毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Blue Gem | Blue Peter | ||
Sparkle | |||
Suncourt 1952 黒鹿毛 |
Hyperion | Gainsborough | |
Selene | |||
Inquisition | Dastur | ||
Jury | |||
母
キョウエイパンセ 1965 鹿毛 |
ウイルデイール 1956 黒鹿毛 |
Wilwyn | Pink Flower |
Saracen | |||
*メードンスグリーン | Straight Deal | ||
Windsor Lady | |||
アサライト 1953 鹿毛 |
トシシロ | *ダイオライト | |
月城 | |||
ブライトン | *シアンモア | ||
第三ビユーチフルドリーマー F-No.12 |