イシノヒカル
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1969年5月6日 |
死没 | 1986年4月11日 |
父 | マロット |
母 | キヨツバメ |
生産 | 荒木牧場 |
生国 | 日本(北海道門別町) |
馬主 | 石嶋清仁 |
調教師 | 浅野武志(東京) |
競走成績 | 15戦7勝 |
獲得賞金 | 9755万0800円 |
イシノヒカルは、日本の競走馬である。昭和47年年度代表馬・最優秀4歳牡馬。マロットの代表産駒である。
- 年齢は旧表記に統一する。
[編集] 戦績
3歳戦を5戦2勝で終えたイシノヒカルであったが、46年暮れから関東で猛威を振るった馬インフルエンザ(流感騒動)の影響で春のクラシック(皐月賞・日本ダービー)は開催が遅れてしまう。これでリズムを崩したのか、皐月賞こそランドプリンスの2着に粘り込んだものの、7月7日に開催されたダービーでは展開に恵まれなかったのか6着(優勝:ロングエース)。日本短波賞ではタカイホーマ(優駿牝馬2着)を振り切り勝ったと思った瞬間に、それまで一介の逃げ馬と思われていたスガノホマレの大外一気の末脚の屈した。秋は京都のオープンレースに勝ち、10日後の菊花賞で後に『無冠の貴公子』と呼ばれたタイテエムが直線抜け出したが、その外を並ぶ間もなく鋭く一気に差し切り頂点に登りつめた。暮れの有馬記念ではメジロアサマの生涯獲得賞金2億円獲得を阻み堂々優勝。これが決め手となり、年度代表馬に選ばれた。翌春、天皇賞直前まで栗東に滞在し調教するものの同レースの出走を断念。この年の秋のオープン惨敗(7着)を最後に引退した。
[編集] 引退後
競走馬を引退したイシノヒカルは、北海道十勝種馬所で種牡馬生活を開始した。だが、長距離に強い晩成型の競走実績と前脚が内向している肢体、更には内国産不遇の時代が相まって繁殖牝馬に恵まれず中央で活躍する馬を輩出出来ず、1985年中野一成牧場に無料払い下げとなった。その後、種牡馬としての再起を掛け体調調整を図っていたものの、肺の異常により移転先で産駒を残すことなく安楽死となった。