アーリア人
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アーリア人(Aryan)はユーラシア中央部を出自とし、主にインド・ヨーロッパ語族に属する言語を話す民族。アーリア民族ともいう。
この項ではインド・アーリア人、イラン・アーリア人と、それらの先祖だけをアーリア人と呼ぶ事とするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般を指すようである。アーリアン学説における意味でのアーリア人をこの項ではアーリア人種と呼ぶ事にする。 アーリアン学説による広義のアーリア人、すなわちアーリア人種はヒッタイトなど多くの民族を含む。 しかし近年、アーリアン学説には反証がなされおり、学説自体が揺れている。
イランとインドに分かれて定住するようになり、先住民との混血が進み両者の違いができた。「イラン」とは「アーリア人の国」という意味である。
- イラン・アーリア人
- インド・アーリア人
中央アジアで部族ごとに遊牧を行い、麦を栽培していた。 司祭が社会的に重要な地位であった。 自然現象を神々として崇拝する宗教を持っていた。
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[編集] 宗教
イスラム教以前のイランの宗教はマズダー教である。マズダー教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとしてとらえる。善神がアフラと呼ばれ、悪神はダエーワと呼ばれる。
インドの宗教でも同様に善悪の二つの神の戦いとしてとらえる部分がある。善神がデーヴァと呼ばれ、悪神はアスラと呼ばれる。
アフラとアスラ、ダエーワとデーヴァは同じ語源だと思われるが、善悪の意味が逆転している。したがって、アフラ・アスラを信仰するアーリア人はペルシアに定住して、ダエーワ・デーヴァを信仰するアーリア人がインドに定住したという説もあった。[1] ただし、実際にはインドでもヴェーダ時代にはアスラに属するヴァルナやミトラが重要な神格であり、善悪の逆転はインドとイランそれぞれの内部発展の差異に由来するものだと考えられている。
アーリア人の宗教は世界の大宗教に大きな痕跡を残している。
[編集] バラモン教
- バラモン教は、インドに定住したインド・アーリア人が、彼らの宗教を元に先住民の宗教を取り込んだ宗教である。
- 仏教は、バラモン教の風土に釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が作った新宗教であるが、釈迦の死後にバラモン教の一部を取り込んでいる。
- ヒンドゥー教は、バラモン教を土台に、さらにインドの民族宗教を取り込んで再構成されたものである。
- ジャイナ教は、仏教と同時期にヴァルダマーナによって提唱された教えで、より徹底した不殺生を説く。なお仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の三者は成立以降、互いに影響し合って発展してきた経緯がある。
- シク教は、ヒンドゥー教とイスラム教の宥和を目指して構築されたもので、両者の教義を取り入れている。
[編集] アーリア人が関係した出来事
- 中央アジア
- メソポタミア周辺
- イランに一部が移住。イラン・アーリア人となる。
- インドへの進出
- 紀元前15世紀頃より、インダス文明が滅びていた北西インド、パンジャブに、徐々に氏族単位の移動が始まっていた。インド・アーリア人となる。
- 紀元前13世紀頃よりインダス文明を構成した肌の色の濃いドラヴィダ人を奴隷化して支配をして行く。支配体制を強めるために階級制度を作り出し、自分達は僧侶階級のブラフミン(バラモン)として最高の地位に付く。
- 紀元前10世紀頃より、より東のガンジス川に向かって移動するにつれ、ドラヴィダ人との混血が始まり、宗教的な融合も始まる。後にアーリア人は肌の色ではなく、言語と宗教により認識されるようになる。
- 紀元前5世紀頃になり、ヴェーダが完成し、バラモン教の宗教的な形式が整えられる。
- 紀元前5世紀に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった、王族クシャトリヤ階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。
- 4世紀、新しい王の支持を受け、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が作られる。
[編集] 関連
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