インダス文明
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インダス文明 (インダスぶんめい,Indus Valley civilization) は、インドおよびパキスタンのインダス川周辺に栄えた文明で、現在南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人によりつくられたと推定されている。考古学上は、ハラッパー文化と呼ばれ、パキスタン、パンジャブ州のハラッパーを標式遺跡とする。
インダス文明が栄えたのは紀元前2600年から紀元前1800年の間である。滅亡については諸説あり、現在では、地殻変動によってインダス川河口付近の土地が隆起し、そのために洪水が頻発して耕地に塩害をもたらし、さらにインダス川の河道が移動したことによって、水上交通を前提とした貿易によって機能していた都市の機能を麻痺させたためという説と、後述するように砂漠化に伴って都市が放棄され住民が移住したという説がある。
また、ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり一部が南インドに移住した。
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[編集] 特徴
- 鉄は知られず、青銅器を使った。
- 大小の都市が建設された。都市の規模は、メソポタミアのものよりも小さく、モヘンジョ=ダロとハラッパーがメソポタミアの小都市にようやく匹敵する規模であった。主な都市遺跡を下記に掲げる。(このほかに小規模の遺跡が多数知られる)
- ハラッパー、カーリバンガン(パンジャブ地方)
- モヘンジョダロ(パキスタン南部、シンド地方)
- ロータル、ドーラビーラ(北西インドのグジャラート)
- うち、モヘンジョ=ダロ、ハラッパーは、1km四方を超える規模をもつ。
- ※都市には2種類あって、「城塞」と「市街地」が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、「城塞」と「市街地」を分けているタイプ(モヘンジョ=ダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。
- 排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。
- モヘンジョダロの「城塞」には、しばしば、「大浴場」と呼ばれるプール状施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンのように、「城塞」の南区や「市街地」の東側の遺丘の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような再生増殖の儀礼と関係すると考えられるテラコッタ女性像やリンガ石と呼ばれる石製品が出土しない。また、南方のロータルを含むグジャラートでは、「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られるため、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。
- 都市遺跡からは、多くの「インダス式印章」が出土する。凍石製で、印面は、3~4cmの方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。動物は、サイ、象、虎などの動物のほかに後のインドの文化にとって重要な動物である牛が刻まれているのが目立つ。一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり、「シヴァ神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からもこのような印章の出土例がある。
- インダス川の氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の「せき」を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。
- 牧畜を行った。
- 盛んな商業活動。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行った。「メルッハ(国)」と呼ばれていたと推定されている。
- 埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。副葬品は土器が一般的で、頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、その場合、銅製の柄鏡も出土している。重要なことは、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。
- 他の古代文明とは異なり、戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。
[編集] 滅亡の原因
インダス文明滅亡の原因は、古くから論争があり、代表的なものとして、M.ウィーラーによる「アーリア人侵略説」をはじめとする外部からの侵略説がまず滅亡の原因として唱えられた。発掘調査によって埋葬もされないで折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説がとなえられた。 また、ヴェーダなどの戦争記事がその根拠のひとつとされた。しかし、当時の発掘調査は、層位関係を考えないで地表からの深さのみを記録して行われた調査であったために同時期の人骨ではないということで否定された。
一方、前述の通り、かつてインダス文明が存在した地域は現在砂漠となっている。インダス文明が消えたのはこの砂漠化によるのではないかと言われている。
砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動が挙げられている。大西洋に広がる低気圧帯は、一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、さらにアラビア・ペルシア・インドにまで及んで、雨をもたらし、緑豊な土地になっていた。しかしやがてこの低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のような乾燥地帯にしてしまった、というのである。また、インダス文明が森林を乱伐したために砂漠化が進行した、という説もある。 しかし、乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、レンガを焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかと反論する研究者もいて決定的なものとなってはいない。
そのため、最近では紀元前2000年頃に地殻変動が起こって、インダス川の流路が移動したために河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説が有力になっている。実際のところインダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラ涸河床沿いに分布している。
[編集] 歴史
紀元前2600年頃に、始まる。
紀元前2000年頃に、衰退し始める。
紀元前1800年頃に、放棄される。
[編集] 関連項目
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