アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)
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アレクサンドラ・フョードロヴナ(Александра Фёдоровна / Alexandra Feodrovna または Alix von Hessen-Darmstadt, 1872年6月6日 - 1918年7月17日)は、ロシア皇帝ニコライ2世の皇后。アレクセイ皇太子、オリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女の母。ラスプーチンの熱心な信者でパトロンでもあった。
ヘッセン大公ルートヴィヒ4世とイギリスのヴィクトリア女王の次女アリスの娘として生まれる。ドイツ名ヴィクトーリア・アリクス・エレノア・ルイーゼ・ベアトリーセ(アリックス)。代父母は英国皇太子(後のエドワード7世)夫妻、ロシア皇太子(後のアレクサンドル3世)夫妻であった。母が35歳で死去した後、6歳から12歳まで祖母ヴィクトリア女王に育てられたため、ドイツ人というより「イギリス人」であった。1884年、姉エリーザベトとアレクサンドル3世の弟セルゲイ大公の結婚式で、皇太子だったニコライと出会う。1894年に結婚、同時に皇后となる。1901年までに女児を4人生む。
1904年、皇太子アレクセイが生まれるが、血友病におかされ、その祈祷からグリゴリー・ラスプーチンを招く。アレクセイの血友病は、ヴィクトリア女王の家系に保有されていた遺伝子であり、彼女がもたらしたものと言われる。このことからくる自責の念があったのか、皇位継承者であるにもかかわらず体の不自由な一人息子への不憫さからか、皇后はラスプーチンを神格化するようになったと言われ、一部ではラスプーチンと肉体関係・愛人関係にあったとも、4人の皇女たちの何人かの肉体をラスプーチンに捧げたとも噂されるが、真偽の程は定かではない。しかし、いずれにせよ皇后を通じて、ラスプーチンが帝政末期のロシア皇室に相当の影響を与えたことは事実である。
第一次世界大戦の時、ラスプーチンの予言でニコライ2世が戦線に赴き、彼女が内政を任されるが、何人もの大臣(主に反ラスプーチン派)の首を挿げ替え、混乱を招く。1916年12月、ラスプーチンが皇族ドミトリー大公らに殺害され、それからわずか3ヵ月後(1917年3月)、ニコライ2世は退位。後にトボリスクに送られる。1918年7月、夫と子供とともに革命軍により殺される。死体はソ連崩壊後に発掘され、DNA検査の結果、姉の孫エディンバラ公フィリップの提供したものと一致した。
[編集] その他
ヴィクトリア女王はこの孫娘を大変かわいがり、王太子(後のエドワード7世)の長男で王位継承権第2位だったアルバート・ヴィクターに嫁がせようとした。アリックスはこの縁談を拒否し、1892年にアルバート・ヴィクターも28歳で死去したため、2人の結婚は実現しなかった。