アニメック
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アニメック
ここでは後者について記述する。
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[編集] 概要
1978年12月に『MANIFIC(マニフィック)』として創刊、当初は月刊。1号の発行部数は五千部、だが当時のラポートは出版社ではなく、書店で流通はせず直販だった。そのため殆んど売れず、その在庫は当時の社長室を埋め尽くしたと言われる。また、3号は特集を予定していた作品の版権元からの許可が取れずに発行出来ず、やむを得ず3・4合併号として発行。
5号から隔月刊化。てこ入れとして、書店流通に移行、誌名を『Animec』と改めた。特集には、当時他誌で大きく扱われていた『銀河鉄道999』を避け、編集長の趣味で東京ムービー制作の『宝島』を取り上げた。これが早々に完売する。
「趣味を押し出した方が売れる」と判断、6号からは更に編集長の趣味で、『機動戦士ガンダム』を誌面の軸に据え始める。日本サンライズから設定資料を借り受け(当時は社外秘扱いではなかった&他誌では殆んど目もくれていなかった)、それを活用した記事内容で注目され、「評論と設定資料集の『アニメック』」という評価を固める。
1983年に再び月刊に戻ったが、記事内容の希薄化は顕著だった。1987年2月休刊。休刊時に編集長はラジオ番組で、「春には復刊させたい」としていた。その年の春が過ぎた頃、再びコメントを求められた編集長は「季節の『春』ではなく『業界に春が来たら』という意味」と、回答に窮していた。休刊後もアニメック編集部はアンソロジーコミックやムックの編集部として会社倒産まで存在した。編集長はアニメック創刊から編集部がなくなるまで1度も交代せず、小牧雅伸が務めた。
[編集] 特徴
評論に特化した誌面を特徴とした。また、創刊時~隔月刊時代は速報性を度外視し、実際に放映された物を視聴し、それを記事のベースとする、という姿勢が取られた。そのため、設定資料などをふんだんに活用しつつも、それは本編内容の補完のみに留めての扱いとされた。
誌面で扱う作品は、注目に値すると編集者が判断した物のみとし、「評価に値しない番組には沈黙を以て応える」と明言されていた。そのため、例えば関連商品の広告が掲載されていた『宇宙戦士バルディオス』は、劇場版が読者投稿コーナーで一度酷評された以外、記事掲載されていない。一方で、素人が作った作品でも注目に値すると判断すれば貴重なカラーページを大幅に割いて紹介していた。アマチュア制作集団のダイコンフィルム等がその例。直後に連載も行われていたため、GAINAXの主要メンバーの素人・駆け出し時代の様子を窺い知る事が出来る。
また、規定により満足に扱えない(誉める事しか出来ず評論は事実上出来ない)原作付きの作品は紹介程度とし、オリジナルのアニメ番組を扱うことを主軸とした。
但し、そういった姿勢が、必ずしも一貫されていたとは言い難い。特に再月刊化後は、読者に「賞賛する箇所が全く見当たらない」とされてしまう作品に複数号に渡ってカラーページを使っていたりもした。
また、マニアックな特集記事の他、個性溢れる連載を載せることにも力を注いでいた。『月刊OUT』で活躍し始めていたゆうきまさみのカット連載及び『マジカル☆ルシイ』の掲載や商業誌にデビューする事が無かった作家にも活躍の場を提供していた。例えば、24体合体で笑いを誘った、『学活ロボ クラスターHR』[1](原作:南田躁 カット:さえぐさゆき・他)など、今見てもコンテンツとして光るものもあった。
[編集] 歴史
- 1978年12月 - 月刊誌として創刊。
- 1979年5月 - 第5号発行、隔月刊化。
- 1981年?月 - 第16号『機動戦士ガンダム大百科』を発行。
- 1983年7月号 - 月刊化、号数表記を通巻号数から年・月号表記に改める。
- 1987年2月号 - 休刊。
[編集] 発行日
発行日は、隔月刊時は奇数月の1日、月刊時は毎月1日。毎年最初の号は1月1日発行だった。普通であれば年末年始に合わせて前後どちらかに発行日をずらすところだが、アニメックは「1月1日発行」をずらす事はなかった。
[編集] その他
- 当初は1979年初めに創刊のスケジュールで話が進んでいた。それが12月発行になったのは、「無理してでも年末に1冊出しておけば、2冊目が第2巻第1号通巻第2号になって格好良い」という理由らしい。
- 当時のアニメ雑誌での硬軟両極端だったアニメックと『月刊OUT』とでは、読者層がかなり似通っていた。一時期『月刊OUT』が便箋を付録にしていた頃、両誌の編集長が顔を合わせる機会があり、アニメック編集長が「読者が最近、『OUT』の付録の便箋ばかり使ってくる」と言ったところ、それが『月刊OUT』の読者コーナーに掲載された事があった。
- 『機動戦士ガンダム』の特集において、日本サンライズからの設定資料を借り受け、詳細に掲載するなどの当時としては斬新な手法で好評を博した。ガンダムは一部地域で放映が1話分まるまるカットされてしまうトラブルがあったが、その際には設定資料でその話を誌面で再構成して詳述する、という記事にページを費やした。隔月刊だけに速報性は皆無だったが、前後関係が後々の物語の理解に影響する番組だっただけに、該当地方の番組視聴者にはかなり有り難がられた。
- 作品ごとに扱いの差が非常に大きい。「取り上げる価値が無いから扱わない」のならまだしも、大々的に扱われているのに冷遇される、というものまであった。その最たるものが『太陽の牙ダグラム』。特集と称して割かれているページの大半に批判・酷評が居並ぶ、という例もあった。ガンダムの頭部が壊されたシーンとダグラムのコクピットが破壊されたシーンを重ね、「たががコクピットを破壊されただけ」とギャグを文中に入れたところ、サンライズ上層部の逆鱗に触れ、一時期、資料の提供が止まった事があった。その際、仲裁に入ったのはガンダムの監督の富野喜幸(現・富野由悠季)といわれる。このダグラム特集は他にも色々と問題が多く、読者からも非難の声が挙がった。それに応えた副編集長曰く、「担当編集が『副編集長に見せたら没にされる』と思って誰にもチェックさせずに入稿してしまった」との事。
- 週刊ラジオアニメック(東海ラジオ)ラジオアニメック・決定!アニメ最前線(ニッポン放送)という冠番組を持っていた事がある。それらの事実上の後継番組であるmamiのRADIかるコミュニケーション(東海ラジオ)は2006年10月現在も放送継続中である。
[編集] 参考資料
- 『別冊宝島 雑誌狂時代!』(1997年、宝島社) - 「オタクのココロ 拡大するオタク雑誌ワールド」で月刊OUTとファンロードとの比較。
- 唐沢俊一、志水一夫『トンデモ創世記2000 -オタク文化の行方を語る』(1999年、イーハトーヴ) - アニメック編集部でライターを務めた志水一夫の回想。
- 岡田斗司夫、山本弘、小牧雅伸『空前絶後のオタク座談会 ヨイコ』(2001年、音楽専科社) - 声優専門誌『hm3』に連載記事をまとめたもの。
- 武田康広『のーてんき通信 -エヴァンゲリオンを創った男たち』(2002年、ワニブックス) - SFファン人脈からの小牧編集長との出会いとアニメックとの関わり。
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