さっぽろ雪まつり
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さっぽろ雪まつり(さっぽろゆきまつり、Sapporo Snow Festival)とは、毎年2月はじめに北海道札幌市内の3つの会場(大通公園、すすきの、サッポロさとらんど)で開催されている雪の祭典である。雪で作った大小の像を中心にしたものだが、すすきの会場を中心に氷像も展示される。
北海道内のみならず日本全国、あるいは海外からも多くの観光客が訪れる、北海道で最も大規模なイベントの一つである。2006年の観客数は7日間で約198万人で、11年ぶりに200万人を下回った。
次回第58回開催は2007年2月6日から2月12日の7日間。
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[編集] 歴史
[編集] 雪まつりの始まり
1950年(昭和25年)に札幌観光協会と札幌市の主催によって開催されたのが始まりである。企画には後援の一つに名を連ねた北海タイムスが深く関与していた。これ以前に札幌には冬の祭がいくつかあったが、第二次世界大戦中に途絶えていた。
雪像を作る祭のアイデアは、小樽市北手宮尋常小学校が1935年(昭和10年)にはじめた雪まつりからとられた。最初の札幌雪まつりでは計6の雪像を札幌市の中学校、高等学校の生徒が制作した。他に札幌駅前に日本国有鉄道(国鉄)の札幌鉄道管理局が雪まつりにあわせて像を作った。
他の催しに、歌謡コンクール、タンブリング、スクエアダンス、演芸大会、ドッグレース(犬ぞりレース)、スキー仮装行列、映画「銀嶺の果て」上映があった。スクエアダンスは、凍った地面で転倒する人が出て30分で中止になった。映写会もやはり足元がすべったせいで観客が映写台を押しつぶしてしまい、中止になった。しかし祭は盛況で、翌年以降も継続することになった。
[編集] 雪まつりの発展
初期の雪まつりで雪像を作るのは、札幌の中学校・高等学校の生徒で、数は5、6個であった。はじめのうち雪像は高さ7メートルを限度としていたが、1953年(昭和28年)の第4回雪まつりで北海道札幌工業高等学校が高さ15メートルの像「昇天」を制作した。雪の塊を石材のように積んだアーチ状建築物に立像を建てたもので、大量の雪が必要であったため、札幌市はトラックとブルドーザーを動員して準備にあたった。これは現在のような機械力を用いた大規模な雪像づくりの端緒となった。
1954年(昭和29年)の第5回からは市民制作の像が加わった。1955年(昭和30年)の第6回には自衛隊、商社、札幌市の出張所が加わり、様々な参加者による多数の像が並ぶスタイルが定着した。しかし高等学校の雪像制作は、3年生にとっては受験や就職活動との両立が困難になってきたことから、同回で打ち切られている。
1959年(昭和34年)の第10回の頃からは、雪まつりを目当てに北海道の外から訪れる観光客が増え始めた。札幌オリンピックがあった1972年(昭和47年)には世界的に雪まつりが紹介され、これ以降海外からの観光客も目立つようになった。1974年(昭和49年)からは海外都市の派遣による国際雪像コンクールがはじまった。
すすきの氷の祭典は、雪まつり開催にあわせた独自のイベントとして1981年(昭和56年)から始まったが、1983年(昭和58年)より雪まつりの会場の一つとして組み込まれている。
1990年の第41回から中央区の中島公園が第4の会場として加えられたが、1992年の第43回をもって廃止された。3回限りで廃止された要因として、中島公園会場は市民制作の雪像がメインだったため大雪像が少なく、集客力に欠けたことがあげられる。
[編集] 自衛隊の協力
さっぽろ雪まつりと別個に、陸上自衛隊真駒内駐屯地では隊内のレクリエーションと雪に慣れるための訓練を兼ね、駐屯地内に雪像を作っていた。自衛隊は1955年から大通公園に進出して像を作ったが、1963年に雪まつりに合わせて真駒内基地を開放してスノーフェスティバルを催した。これもまた雪像を中心にしたもので、実質的に雪まつりの別会場として機能した。1965年から真駒内の祭典は雪まつりの一部になった。
陸上自衛隊は、優越した人員と機材を投入し、年々のノウハウを蓄積して、雪像制作の主役となった。後には大雪像のほとんどが自衛隊制作か自衛隊の協力を仰いでの制作になった。
しかし、2001年のテロ対策特別措置法の施行後は、自衛隊の協力体制は大きく縮小されることになり、大通公園の大雪像は自衛隊の担当する数が削減され、長い間親しまれた真駒内会場は2005年の第56回開催をもって廃止された。
直接の理由は、製作の主力となる陸上自衛隊第11師団の将来的な縮小(旅団化)にあるが、背景には、市民団体の出身でもある上田文雄市長が『市民主体の雪まつり』を目指し、自衛隊の雪まつりへの協力を当初拒否する姿勢を見せていたことが一因とも言われている。
現在札幌市は、市職員を派遣するとともに、市民ボランティアの参加も募って、一部の大雪像や「さとらんど会場」の雪像制作や会場運営を行っている。最近では、北海道外からのボランティア参加者もいる。
しかしボランティアは人員の流動性が高く、近年は謝礼(ウィズユーカードの配布)を取りやめたこともあって減少傾向にある。雪像制作の技術をどのように継承していくかがこれからの課題といえる。また、大量の雪を運搬する技術や能力は自衛隊のマンパワーに委ねられていた面もあったため、今後大規模な雪像の制作が維持できるか疑問を投げかける関係者もいるという。
[編集] 概要
[編集] 大通会場
大通公園 : 大通西1丁目から西12丁目まで
各エリアごとに幅40mほどの大雪像・中雪像1または2基(もしくは氷像)と、「市民雪像」と呼ばれる2m四方程度の小雪像十数基を見ることができる。小雪像制作には札幌市民だけでなく、在日米軍三沢基地など国内各地からの参加があり、毎回定数に対し5倍近い申し込みがある。また、西11丁目の国際会場では「国際雪像コンクール」が行われ、姉妹都市ポートランド(アメリカ)をはじめ、各国から参加して技を競っている。近年は完成間近の雪像を見学する「開催直前ツアー」や、閉幕後の雪像解体の見学も人気がある。
[編集] すすきの会場
札幌駅前通の南4条~南7条間が会場。期間中は車輌通行止めになる。「すすきの氷の祭典」と呼ばれ、すすきの氷の祭典実行委員会が主催するものだが、雪まつりの会場の一つとして位置付けられている。その名の通り氷像が展示の中心である。料理の飾り付けとして氷や野菜を彫刻する技能を生かした、近隣ホテルの調理人たちの手による作品が多い。
[編集] さとらんど会場
サッポロさとらんど「さとの広場」周辺
真駒内会場に代わって2006年から会場となった。真駒内会場との最大の違いは「市民主体の会場づくり」であり、自衛隊員の参加は技術指導程度である。このため雪像は小、中規模に留まり、100メートル級の滑り台や巨大迷路がメインとなるが、雪だるま作りやスノーラフティングなどで雪とふれ合える広場のほか、屋台村などが設けられた。2006年の観客は17万5000人で真駒内会場の前年実績には及ばなかったものの、雪まつり実行委員会が目標としていた10万人を大きく上回った。会場への足として約1500台分の駐車場を開放したほか、シャトルバスを運行したが、週末には会場へ向かう自家用車で周辺道路が大渋滞となり、駐車場が4時間待ちとなったり、シャトルバスが渋滞に巻き込まれ運行麻痺に陥るなど次回へ向けての課題も残した。雪まつり実行委員会は2007年もさとらんど会場の継続を決めたが、駐車場は倍の3000台分を確保するという。
- 北海道新聞が会場の正式発表以前に紙面で「中島公園に内部決定」と報じたが、面積が狭いこと、観光バス駐車スペースなどが確保できない事などを理由に実際には見送られている。
[編集] 参考文献
- 札幌市教育委員会編『雪まつり』、さっぽろ文庫47、北海道新聞社、1988年、ISBN 4-89363-046-6。(単行本としては、現在は市販されていない。古書店での入手も難しくなっているが、札幌市内のほとんどの図書館に蔵書されている。)