T-60 (戦車)
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T-60は第二次大戦中のソ連の軽戦車である。
偵察用水陸両用軽戦車であるT-40は独ソ開戦後ほどなく水陸両用機能を削られ、また武装と装甲を強化したT-30に発展した。しかしこれはT-40同様の浮行用のデザインのままであり、一方ではN.A.アストロフ技師の設計チームにより、最初から陸上専用に設計された軽戦車が試作されていた。これはトーションバー・サスペンションのT-40のシャーシを元にしてはいるものの、浮力を稼ぐための車体容積を削り、絞り込んだ結果、同程度の重量ながら車体前面下部と操縦席の装甲、砲塔で25mm(後期型で35mm)と倍の厚さにできた(70度に傾斜した前面装甲は15mmにすぎない)。それ以外のエンジンや操行装置、二名の乗員配置などは以前とさほど変らず、TNSh20mm機関砲を装備した本車は1941年10月、T-60として採用された。
モスクワ前面にドイツ軍が迫る危急の時であり、またより高性能のT-50を量産する余裕も無く、T-60にはいきなり一万輌という大量生産の命令が出された。疎開により遅れつつも4つの工場で順に量産に入り、12月半ばには量産第一号がロールアウトした。次々に前線に送られた本車は、本来の偵察などという悠長な任務に就いている余裕はなく、跨乗歩兵を乗せてドイツ軍陣地に突進していった。これは武装・装甲が従来よりは強化されたとはいえ、小さな軽戦車に向いた任務ではなく、他の軽戦車ともども37mm対戦車砲によって討ち取られてしまう有様だった。さらに、小型で車体底部と地面との間が狭いため、泥濘地や雪原では腹が接地して動けなくなるなど、本来偵察用のはずがT-34よりも機動性に劣るのでは何のために存在しているのかわからず、あまりに簡単にやられてしまうため、"Bratskaya Mogila na dvoikh"「二人兄弟の墓」などというあだ名まで付けられる始末だった。
こうして味方からもその価値を疑われたT-60だが、これを調査したドイツ軍の報告でも、「華奢で戦力価値なし」「捕獲しても使い道が限られる」(実際、大砲を牽引する装甲トラクターとして使われた)と同様に評価されていなかった。にもかかわらず、疎開中の工場でT-34やKVといった強力な戦車が大量生産され数を揃えるまで、これら軽戦車は時間稼ぎの戦いを止めるわけにはいかなかったのである。レンドリースで送られてきた英国戦車と共に、「無いよりはマシ」の本車は、翌年のドイツ軍の夏季攻勢でも散々に打ちのめされながらも投入され続けた。こうして本車は、より強化されたT-70の生産開始から半年後の1942年の秋までに6045輌が生産された。
そんなパッとしないT-60ではあるが、中にはこれでソ連邦英雄の称号を得た戦車兵もいた。'43年1月、第5号パショーロクの戦いにおいて、硬く凍りついた雪の林の中、第502重戦車大隊所属のVI号戦車ティーガー3輌を発見した戦車長ディミトリー・オサーチュク中尉と操縦士のイヴァン・マカレンコフ曹長は、これらを挑発しておびき出し、隠れていた味方の野砲陣地に近づき横腹を向けさせ、見事2輌を撃破させるのに成功したのであった。
本車をベースにカチューシャ・ロケットランチャーを搭載した自走砲型・BM-8-24が量産され、対空自走砲、グライダー付き空挺戦車が試作された。またルーマニアは捕獲した本車に76.2mm野砲を載せた自走砲を作り上げている。
第二次世界大戦のソ連の装甲戦闘車両 | |||
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軽戦車 | 快速戦車 | ||
T-26 | T-50 | T-60 | T-70 | T-80 | BT-5 | BT-7 | BT-8 | ||
豆戦車 | 装甲牽引車 | ||
T-27 | T-26T | T-20コムソモーレツ | ||
水陸両用戦車 | 中戦車 | ||
T-37 | T-38 | T-40 | T-28 | T-34 | T-44 | ||
重戦車 | |||
T-32 | T-100 | T-35 | SMK | KV-1 | KV-2 | KV-85 | IS-1 | IS-2 | IS-3 | |||
自走砲 | |||
ZiS-30 | SU-5 | SU-76 | SU-76i | SU-122 | SU-85 | SU-100 | SU-152 | ISU-122 | ISU-152 | |||
装甲車 | |||
BA-11 | BA-20 | BA-21 | BA-27 | BA-64 | BA-30 | |||
自走式対空砲 | |||
ZSU-37 | |||
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