鶴見事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鶴見事故(つるみじこ)は、1963年(昭和38年)11月9日午後9時40分頃に日本国有鉄道(国鉄)東海道本線鶴見駅~新子安駅間で発生した列車脱線多重衝突事故である。
目次 |
[編集] 概要
事故地点における貨物線(現在の横須賀線線路)走行中の下り貨物列車(EF15形牽引、45両編成)後部3両目のワラ1形2軸貨車(ワラ501)が突然脱線。引きずられて架線柱に衝突した後に編成から外れ、隣の東海道本線上り線を支障。そこへ東海道本線線路を走ってきた横須賀線の上り2000S・下り2113S電車列車(それぞれ12両編成)がほぼ同時に進入した。
時速90km前後という高速のまま進入した上り列車は貨車と衝突。先頭車は下り線方向に弾き出され、架線の異常を発見して減速していた下り列車の4両目を側面から串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら5両目までの車体を削り取り、やっと停止した。その下り列車4・5両目のモハ70079とクモハ50006は車端部を残して全く原形を留めないほど粉砕され、5両目に乗り上げた形の上り列車先頭車のクハ76039も大破。上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事になった。
[編集] 原因
事故後、ワラ1形がカーブから直線になった地点で線路に乗り上げていた痕跡が認められた。そして国鉄は脱線原因を徹底的に調査・実験した結果、車両の問題・積載状況・線路状況・運転速度・加減速状況などが複雑に絡み合った競合脱線であるとした。原因不明として処理された過去の2軸貨車脱線事故も、多くはこれが原因である疑いが出てきたのだった。
競合脱線事故の多くは貨物列車単独に被害が及ぶもので、人的被害を発生させた例は少なかったが、本事故はたまたま貨車の競合脱線とほぼ同時に上下方向から旅客列車が進入してきたことで甚大な人的被害をもたらした。
[編集] 対策
事故後、技術調査委員会を設け、模型を使った実験、実際に2軸貨車を走行させる実験など、競合脱線のメカニズム解明に向けた様々な角度での研究が続けられた。1967年(昭和42年)からは、新線切替で廃線となった北海道の根室本線狩勝峠旧線(新得~新内 通称:狩勝実験線)を利用し、貨物の積載状態、空車と積載車の編成具合、運転速度や加減速度等さまざまな条件に基づいて実際に実験車を脱線させるという、大規模な脱線原因調査が行われた。実験は1972年(昭和47年)2月に一応の結論を出し、護輪軌条の追加設置、塗油器の設置、2軸貨車のリンク改良、車輪踏面の改良などにつながることになる。軽負荷時の走行特性の悪いワラ1形も当然ながら改良され、国鉄末期の1986年(昭和61年)まで使用された。(ワラ1型はワム60000類似車として配備前の実車試験が省略されて、軽負荷時の激しいピッチング特性が見逃されたことが後日明らかにされている)
現在も、国道38号線沿線に、実験車マヤ40形の遠隔操縦やデータ収集に使った無線塔などの実験跡が残っている。
これらの対策は1975年(昭和50年)までに終了し、さらに車扱貨物輸送の減少で2軸貨車が激減したため、現在は日本国内では2軸貨車の競合脱線はほぼ起こりえなくなっている。
余談ながら、2000年(平成12年)の営団日比谷線脱線衝突事故では、事故原因が競合脱線に近い乗り上がり脱線だったことから、ニュースなどで狩勝実験線の実験映像がよく流されていた。
[編集] その他
- 本事故が発生した後、付近の住民も事情聴取されたが、ほぼ全員が事故の時刻をはっきりと覚えていた。理由は、事故の時刻に放送されていたアメリカ製テレビドラマを見ていたからだということであった。
- 本事故と同じ日には福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で死者458人を出す大爆発事故が発生し、「血塗られた土曜日」となった。
- 本事故を描いたテレビドキュメンタリー番組『カメラルポルタージュ ひとり帰ってこなかった』がTBSにより製作された。この事故で亡くなったある男性サラリーマンにスポットを当て男性の母親と婚約者の女性の悲痛な叫びが事故の悲惨さを物語っている(実際偶然にTBSの男性アナウンサーが下り電車に帰宅のため乗っていて事故後現場からリポートを続けた)。この番組は現在、横浜市の放送ライブラリーで見ることができる。
- 本事故の犠牲者には、横浜市立大学学長、日本科学史学会会長を歴任した哲学者の三枝博音も含まれている。
- 一部のウェブページでは、本事故について「下り電車が脱線したところに上り電車が突っ込んだ」と書かれていることがあるが、これは三河島事故と混同されていると思われる。