隻眼
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隻眼(せきがん)とは、片側の目そのものや視力を失った状態を言う。病気(腫瘍など)の内因の他、事故や戦闘中の負傷など外因、奇形による先天的な要因の場合もある。失った目が、右目でも左目でも同じように呼ばれる。
目が失われたために義眼を入れたり、眼帯などで隠し、自らの威厳の誇示を兼ねることがある。
[編集] 神話・伝説の中の隻眼
世界中に伝わる神話や伝説、民話のなかには非常に隻眼の登場人物・形象が多い。隻眼なのは人間に限らず、神々や怪物はもちろんのこと、蛇や竜であったり、魚や蛙であることもある。
隻眼は、字義的には本来二つあるべき目のうちの片方が失われたか、または存在しない左右非対称な形象であるが、一部においては顔の真ん中に(単眼症のように)一つだけ目が存在すると表現されることもある(キュクロプスなど)。また、隻眼という言語的イメージだけ伝承されていてそれが具体的にどのような視覚的イメージを表象しているのかについての共通理解がないことも多い。
隻眼の形象は、場合によっては身体のその他の部分も片方だけしかないことがある。たとえばスコットランドの山の巨人ファハンは隻眼・片腕・一本脚であり、こうした形象はアフリカ、中央アジア、東アジア、オセアニア、南北アメリカなど非常に広大な範囲で伝承されている。文化人類学者のロドニー・ニーダムはこれらをまとめて片側人間(unilateral figures)と呼んだ。
このような複合的な形象のうち特に多いのは隻眼と一本脚の組み合わせである。
なぜこうした形象が隻眼なのかについて、神話はそれぞれに異なった説明を与えている。北欧神話の神オーディンが隻眼なのは、知恵を得るために片目をミーミルの泉に捧げたからである。日本の民間伝承に登場する片目の神は、何らかのミスによって片方の目が負傷したから隻眼であり、そのためその神の聖域である池に棲む魚も片方しか目がない。しかしこのような説明がある存在は多くはない。
学術的な観点からもいくつかの説が唱えられている。日本だけに限れば、柳田國男は、もともと神に捧げるべき生け贄の人間が逃亡しないように片目(と片脚)を傷つけていたのが神格と同一視されるようになったのが原因であると考えた(『一つ目小僧その他』)。 谷川健一は、隻眼の伝承がある地域と古代の鍛冶場の分布が重なることに着目した。たたら場で働く人々は片目で炎を見続けるため、老年になると片方が見えなくなる。またふいごを片方の脚だけで踏み続けるから片脚が萎える。古代は人間でも神々と同一視されていたため、鍛冶の神がこのような姿をしているということになった。そしてこれらの神々は零落して妖怪になった(『青銅の神の足跡』)。赤松啓介の見解もこれに近い。
しかしどちらにしても、日本列島という狭い地域を越えて広大な分布を持つ隻眼・一本脚の形象を説明することはできない。ネリー・ナウマンはユーラシア大陸の様々な文化やアステカ神話に見られる隻眼・一本脚の形象を検討し、それらが少なくとも金属器時代以前にさかのぼるものであることを指摘した。隻眼の形象は雨乞いや風、火などの自然現象に関係することが多いというのである(『山の神』)。
一般的には、鍛冶の神と隻眼との関連は洋の東西を問わない、と言われているが、実際は日本(天目一箇神)とギリシア(キュクロプス)に例があるのみである。ただし片脚あるいは脚萎えはそれよりも少し広い分布を見せている。西アフリカや北欧の伝説では鍛冶屋は小人であるとされており、むしろ広い意味での「身体の完全性の欠如」に要因を求めるべきだとする説もある(ミルチャ・エリアーデ『鍛冶師と錬金術師』。)日本とドイツの習俗を比較したA.スラヴィクは、(少なくとも一部は)古代に存在した若者戦士秘密結社の儀式が一般人に誤解された結果、隻眼を含めた欠如という形象を生み出したと推測した(『日本文化の古層』)。また、松岡正剛のように、より大きな意味での弱さからこれらを考察する人も多い(『フラジャイル』)。
北欧神話が所属するインド・ヨーロッパ語族の伝承については、ジョルジュ・デュメジルが彼の三機能仮説における第一機能との関連を主張した。明確な理由は不明だが、第一機能(呪術的主権・司法的主権の二項対立がある)のうち一方は片目がなく、もう一方は片腕がない、というものである。つまり隻腕ならびに一本足が、この場合では隻眼、隻腕の組み合わせになっている。たとえばオーディンは片目がないが、テュールは片腕がない(フェンリル狼に食いちぎられた)。古代ローマの伝説的歴史ではポルセンナと戦ったホラティウス・コクレスは片目であり、スカエウォラは片腕を焼かれて失う。ケルト神話の神ルーは戦時中片目だけを開き(これは英雄クーフーリンも同じ。またルーの祖父は片目が邪眼だった)、一本脚で戦士たちを鼓舞したが、ヌァザは戦争中片腕を切断された。ケルトの事例については邪眼との関連が強いことから、戦闘時の呪術に関係するものだという説も提出されている(Jacqueline Borsje, 'The Evil Eye' in early Irish literature and law)。他にもデュメジルは隻眼と隻腕に類するものとして、インド神話の神サヴィトリとバガの例を挙げている。ある重要な祭祀においてサヴィトリは両腕を失い、バガは両眼を失う。もっともデュメジルは、インドの例においては呪術、司法の二項対立と、眼と腕との関係が逆転しているとして不審がっている。
ほかにも隻眼は男根の象徴であるとする説(民俗学者アラン・ダンデスのWet and Dry,the Evil Eyeや堀田吉雄『山の神の研究』など)、太陽の象徴であるとする説(古典学者アーサー・バーナード・クックのZeusvol.2やその追随者たち)など多くの仮説が存在するが、いずれも決定的なものではない。
先述のロドニー・ニーダムは、片側人間の分布が広すぎることから考えて、これは人間の心理における一つの元型である、と唱えた。ただし小松和彦はニーダムの仮説を「安易に心理学に頼りすぎている」として斥けている(『異界を覗く』)。