酒井重忠
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酒井 重忠(さかい しげただ、1549年(天文18年) - 1617年8月22日(元和3年7月21日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての徳川氏の家臣。父は徳川氏の譜代家臣・酒井正親。母は石川数正の姉。家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世の父。家光の長男・家綱の時代に老中・大老として25年以上つとめた酒井忠清は彼のひ孫に当たる。
三河国坂井郷出身。若い頃から徳川家康に仕え、1569年の遠江掛川城攻め、1570年の姉川の戦いなど、家康初期の主要な合戦の大半に参加して武功を挙げた。1576年、父・正親が死去したため、その後を継いで三河西尾城主となった。1582年、本能寺の変で織田信長が死去したとき、家康一行は伊賀越えを行なった。このとき、重忠は本国の留守居を任されていたが、家康一行が伊勢国まで逃れてきたとき、白子で家康一行を船で出迎え、その安全を確保したのである。
これらの功績により、1590年に家康が関東に移封されると、武蔵国川越に1万石の所領を与えられた。1592年からの文禄の役では江戸城の留守居役を務め、1600年の関ヶ原の戦いでは本戦に参加し、その後は近江国大津城の守備を担った。戦後、家康からその戦功を賞されて、上野国厩橋藩に3万3000石の所領を与えられた。1614年からの大坂の陣では江戸城の留守居、兵糧輸送の責任者などを務めた。
1617年7月21日、69歳で病死した。墓地は群馬県前橋市の竜海院。
ちなみに、伊賀越えで逃れてきた家康を救ったとき、その船に立てた船印を、重忠は馬印として使ったという。