石川数正
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石川 数正(いしかわ かずまさ、天文2年(1533年) - 天正20年(1592年))は、徳川家康、後に豊臣秀吉の家臣。石川康正の子。
[編集] 経歴
家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男、陸奥六郎義時が河内国壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、義時の三男の石川義基が石川源氏、石川氏の祖となったという。数正の家は三河に下った石川氏の与党である。
幼少期から家康に仕え、家康の人質時代も行動を共にした。1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれて徳川氏(当時は松平氏)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時、人質であった徳川信康を取り戻したという。1563年、三河で一向一揆が起こると父・康正は家康を裏切ったが、数正は家康に尽くしたという。
これらの功績から、数正は西三河の旗頭として東三河の旗頭の酒井忠次とともに、家康に重用されるようになった。家康の子・徳川信康が元服すると、その後見を任されたという。また、軍事面においても姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。また、1582年に織田信長が死去し、その後、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉との間に問題が発生すると、数正は徳川氏の外交折衝役を務めたが、1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡したという。これには諸説があり、今でも謎が多い。このため徳川軍は三河以来の軍制を武田流に改める事になった。
その後、秀吉から信濃に10万石を与えられ、1593年、病死した。その後、石川氏は数正の息子・石川康長と石川康勝の代に、徳川家康によって改易されている。
なお、次男石川康勝(一説には長子康長も)は大阪の陣の際、元家臣団を率い浪人大将として入城。夏の陣で真田信繁の寄騎となり天王寺・岡山の戦いで活躍したが戦死している。