越中公方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
越中公方(えっちゅうくぼう)とは、1493年に室町幕府10代将軍を廃され京都を追放された足利義材が越中国射水郡放生津で樹立した政権。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。
義材は神保長誠の放生津城(射水市中新湊)に入り、次いで正光寺を改装した御所に入った。越中守護畠山尚順、加賀守護富樫泰高、越後守護上杉定実、越前守護朝倉貞景、幕府昵近公家衆日野某、阿野実平、松殿忠顕、飛鳥井雅康、幕府奉公衆伊勢貞仍、吉見義隆、畠山政近ほかの四番衆、狩野左京介、一色視元ら270人が政権を構成し、御判御教書、御内書、奉行人奉書を独自に発して義材の京都復帰運動を支えた。京都の細川政元政権との関係から、京都へ帰参したり、越中へ下向するなど人員には出入がある。1498年、義材が越前に動座したことにより越中での活動を終えた。御所となった正光寺跡は、神保寺遺跡(射水市八幡町)と推定される。