赤瀬川原平
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赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい、1937年3月27日 - )は、日本の前衛芸術家・作家である。本名、赤瀬川克彦。神奈川県横浜市出身。大分県立大分舞鶴高等学校入学後転校し、愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。純文学作家としては「尾辻克彦」と名乗った。
直木賞作家の赤瀬川隼は実兄。
2006年4月より、武蔵野美術大学日本画学科の客員教授を務める。
目次 |
[編集] 活動
[編集] 前衛芸術家として
1960年「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加。1963年、高松次郎・中西夏之とともにハイレッド・センター(3名の頭文字から命名)を結成。1962年シェル美術賞入選。1963年に発表した千円札の模写作品が、通貨及証券模造取締法違反に問われ裁判となり、1970年に有罪確定。1970年代から『朝日ジャーナル』『ガロ』などの雑誌で活動。『朝日ジャーナル』誌に連載した「櫻画報」の最終回では、「アカイアカイ アサヒアサヒ」という有名な国語の教科書の一頁をパロディ化し、水平線から昇る太陽を朝日新聞のロゴに描き換えた。発売後その号は回収となり、「左寄り批判」を気にした朝日新聞社の上層部が問題視したのではないかと噂されたが、回収の理由は明らかにされていない。櫻画報の連載は「ガロ」で継続された。
1972年には関西のロックバンド、ジプシーブラッドのアルバム『ろっこうおろし』のジャケットデザインを手がけた。
[編集] 純文学
1980年、「尾辻克彦」名義で発表された『父が消えた』で第84回芥川賞を受賞。その後、純文学系の活動を尾辻克彦名義で行い、尾辻・赤瀬川「共著」の本なども出したことがあるが、現在では尾辻名義の活動はしていない。
[編集] トマソン・路上観察
1980年代に南伸坊、松田哲夫らとともに、意図的に造られた芸術作品ではない、不動産に付着した無用の長物を「超芸術トマソン」と名付け、「写真時代」の連載を通じて広めた。また、トマソンやマンホールの蓋、看板などを発見・考察する、「路上観察学会」を創設する。1987年には、『東京路上探険記』で講談社エッセイ賞受賞。赤瀬川氏が建てた住居は「路上観察学会」会員である藤森照信(建築史家・建築家、東京大学教授)設計による、屋根に韮を生やした「にらハウス」である。
[編集] その他
明治の異端のジャーナリスト、宮武外骨を再発見し、紹介した。1996年『新解さんの謎』では、三省堂の「新明解国語辞典」をまるで一人の個性的な人格のように扱い、話題を集めた。
1998年『老人力』では、高齢化社会が進む中で、老人への新しい視点を提供した(「老人力」という言葉は、もともと藤森照信が還暦を過ぎた赤瀬川に対して使った言葉であった)。
その他にも「月刊天文ガイド」で10年以上に渡る連載を行ったり、カメラ(特にクラシックカメラやステレオカメラ)に関する著作、ライカ同盟や脳内リゾート開発事業団の活動など、影響は大きい。
[編集] 著書
- 東京ミキサー計画―ハイレッド・センター直接行動の記録
- 櫻画報大全
- 父が消えた(尾辻克彦名義)
- 超芸術トマソン
- 路上観察学入門(藤森照信ほかと共著)
- 東京路上探険記(尾辻克彦文・赤瀬川原平絵)
- 宮武外骨・滑稽新聞(吉野孝雄と共編)
- カメラが欲しい(尾辻克彦名義)
- ライカ同盟(尾辻克彦名義)
- 老人力
- 日本美術応援団(山下裕二と共著)
- 新解さんの謎
- 千利休―無言の前衛
など多数