財田川事件
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財田川事件(さいたがわじけん)は、1950年(昭和25年)2月28日に起きた強盗殺人(刺殺)事件とそれに伴った冤罪事件である。なお、地名の「財田」ではなく川の「財田川」と呼称するのは再審請求を棄却(1972年)した裁判所の文言で「財田川よ、心あらば真実を教えて欲しい」と表現したことに由来する。
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[編集] 概要
1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現・三豊市)で、闇米ブローカーの男性(当時63歳)が全身30箇所を刃物でめった刺しにされて殺害され、現金1万3000円を奪われた。
同年4月1日、隣町の三豊郡神田村(こうだむら)で2人組による強盗事件が発生した。その事件の犯人として谷口繁義(当時19歳)ともう1人が逮捕された。この2人は『財田の鬼』と近隣で嫌がられていた不良組だった。警察はこの2人を殺人の容疑で取り調べた。
もう1人はアリバイが証明され釈放となったが、谷口のほうはアリバイ成立に疑惑が残ったため、約2ヶ月に渡って厳しい拷問による取調べの結果、自白の強要により、8月23日、起訴された。
[編集] 一審裁判
1952年1月25日、高松地方裁判所丸亀支部における最初の裁判で谷口はアリバイと拷問による自白だと強く主張し、訴えた。ところが取調べ中にまったく出ていなかった血痕に関することを検察は裁判で初めて主張し、古畑種基東京大学教授による鑑定(後に実際の検査は大学院生が行っていたことを本人が認めた)でそれが被害者のものであると判明した(恐らく谷口の衣類押収の際、衣類にばら撒いたのであろう)ため、それが発端で死刑判決が下った。
[編集] 後の裁判
[編集] 再審請求
死刑が確定した後、谷口は大阪拘置所に移送された。これは四国に死刑設備がなかったための措置である。法務省刑事局は、谷口の死刑執行起案書を作成するために、高松地方検察庁丸亀支部に対し裁判に提出しなかった記録を送付するように命令した。しかし故意か過失かは不明であるが高松地検は記録を紛失(破棄した疑惑もある)していた。そのため、法務大臣への稟議書が出せないため死刑執行手続きが法的に不可能になった。
一方、谷口は1964年(昭和39年)に「3年前の新聞記事によれば古い血液で男女を識別する技術が開発されたとあるが、自分は無実であるからズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」と記した手紙を高松地裁に差し出した。その手紙は最高裁判決から12年後の1969年(昭和44)、高松地裁裁判長・矢野伊吉によって5年ぶりに発見された。
矢野は疑わしく思える部分から再審の手続きを済ませ、再審に乗り出したが、開始直前に反対運動が起こり、「手紙ごときで再審はおかしい、引っ込め」などの暴言をうけ、再審はなかったものとみなされてしまった。矢野は裁判長を辞め、弁護士として再出発し、谷口の弁護人となって新たに再審請求した。
[編集] 矛盾点
矢野によれば事件には以下のような矛盾点が遭ったという。ちなみに事件の捜査を行ったのは元特高警察出身の警察官達であったが、同じメンバーが担当した榎井村事件(1946年に発生した殺人事件)も1994年に再審無罪になっている。
- 長期拘留と拷問による自白強要(このような自白強要は現在の刑事訴訟法では排除法則によって真実であっても証拠にならない)
- 自白調書が捜査機関によって不正作成されている
- 犯行を告白した手記が偽造されている(谷口は尋常小学校卒で漢字が殆ど書けず作文能力が稚拙だったのに、ある程度まとまった文章でかかれている。そのうえ作為的な文法ミスがある)
- 物的証拠を捏造している
- 高松地検丸亀支部による公判不提出捜査記録の破棄(そのため死刑手続自体が不可能になった)
- 弟と一緒に就寝していたというアリバイが成立する(親族による証言のため採用されなかった)
[編集] 無罪
1976年10月12日、最高裁は谷口の自白に矛盾があるとする「3つの疑問と5つの留意点」を指摘して高松地裁に差し戻した。
1979年6月7日に高松地裁は再審開始を決定し、検察側の即時抗告を1981年3月14日に棄却したため再審が始まった。再審の公判では谷口は改めて拷問による自白を訴え、矢野は谷口の自白と現場検証の矛盾を突き、また、地裁で出廷していた東大の教授が科学の進歩により解明できなかった血痕に関して、谷口の衣類に別の血痕が混じっており、警察・検察がばら撒いたことを示唆し、それがもとで1984年3月12日、谷口は獄中生活34年目にして無罪を言い渡された。しかし矢野は谷口の無罪判決を聞くことなく1983年3月に他界(享年71歳)していた。なお無罪放免された谷口は2005年7月に病死(享年74歳)したが、冤罪で人生の5分の2を奪われた事は取り返しがつかない。捜査機関の汚点であるといえる。