榎井村事件
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榎井村事件(えないむらじけん)とは1946年(昭和21年)に発生した殺人事件である。この事件は半世紀の後に再審で冤罪であったことが確定したことが特徴である。
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[編集] 事件の概要
1946年8月21日午前2時頃、香川県仲多度郡榎井村(現在の琴平町の一部)に居住していた大蔵省専売局(現在の日本たばこ産業)の職員(当時43歳)の自宅に2人が侵入した。隠れていた侵入者と対峙しようとしたが白いパナマ帽を被った男がピストルを撃ち職員を射殺した。犯人の遺留品はパナマ帽と薬莢だけであった。
[編集] 容疑者逮捕
事件から1週間後の8月28日、高松専売局に盗みに入ったA(当時18歳)とB(当時19歳)が逮捕された。2人は窃盗未遂、住居不法侵入をしたことを認めた。しかし警察は、榎井村の事件も2人が犯人と見て厳しく追及した。2人は当初犯行を否認したが、Bが「Aが射殺した」と供述したこと、パナマ帽をAに買い与えたとする台湾人の証言を得たことを証拠に殺人罪で起訴した。だがAはまったく身に覚えが無いとして犯行を否認し続けた。
[編集] 刑の確定
1947年12月8日、高松地方裁判所は検察側の主張を全面的に認めてAに無期懲役、Bに懲役6年の判決を言い渡した。Bは控訴せず確定。(Bも第一審公判途中より否認に転じていたが、家族の経済的負担等の理由により控訴しなかった) したが、Aは無実を訴えて控訴した。1948年11月9日に高松高等裁判所はAの控訴を棄却したうえで懲役15年に減刑した判決を言い渡した。1949年4月28日に最高裁は上告を棄却しAの懲役15年が確定した。
なおAはサンフランシスコ講和条約の恩赦によりさらに減刑されたため1955年に仮出所した。出所後、愛媛県今治市に定住したが冤罪を晴らすための活動を開始した。
[編集] 再審請求
Aは捜査を担当した刑事、弁護士、関係者を訪ね歩いて情報を集めた。それから1990年3月19日にAは高松地裁に再審請求を申請し、1993年11月1日に再審開始を決定した。
1994年に高松地裁は、Bの供述は取調官からAがお前と一緒にやったと話していると聞かされ誘導尋問されたものであり、パナマ帽もAの兄は警察から強要されて弟のものと証言したこと、そして帽子をAに買い与えたとする台湾人は、その事実を否定した証言から、有罪とした確定判決に掲げられているものが否定され、新たな証言には信憑性と新規性があることを認め、Aに無罪を言い渡した(Bの冤罪も間接的に認められたともいえる)