菊姫
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菊姫(きくひめ)
- 武田信玄の娘、上杉景勝の正室。以下で詳述。
- 北条氏康の娘、里見義頼の正室。
- 前田利家の娘、羽柴秀吉の養女。以下で詳述。
- 宗像正氏の娘、宗像氏雄の正室。菊姫 (宗像氏)を参照。
- 真田昌幸の娘、滝川一積の妻(?-1666年)。
- 吉弘鑑理の娘、大友義統の正室。吉弘菊姫を参照。
- 岡部長盛の娘、徳川家康の養女、鍋島勝茂の正室。院号は高源院(?-1661年)。
- 内藤政長の娘、保科正之の正室(1618年-1637年)。
- 松平頼元の娘、小笠原忠雄の養女、松平宗昌の正室。
- 島津継豊の娘、黒田重政の正室(1733年-1808年)。
- 内藤政樹の娘、松平頼永の正室。
- 石川県白山市の菊姫合資会社が製造・販売する日本酒の銘柄。
菊姫(きくひめ、永禄6年(1563年) - 慶長9年2月16日(1604年3月16日))は、武田信玄の六女。母は油川信安の娘油川夫人。別名は、阿菊御料人、甲斐御前、大儀院。上杉景勝の正室である。
武田勝頼の妹。1575年の長篠の戦いで、勝頼が織田信長に敗れて武田氏の勢力が衰退したとき、上杉氏と同盟を結んで信長に対抗するため、武田・上杉和睦が行なわれた1579年が、両家の同盟の証として景勝に嫁いだ。
上杉家では甲州夫人もしくは甲斐御寮人と呼ばれて、景勝や上杉家から大事にされた。景勝との間には子供は無かったが、景勝は20年近く側室を持たず、また側室との間に生まれた定勝も武田家を丁重に扱った。
慶長8年冬から病で体調を崩していた甲斐御寮人は、洛中の名医を招いたり諸山の高僧に祈祷させるなどの治療の甲斐無く、翌9年2月16年に伏見屋敷で亡くなった。上杉年譜に「公(景勝)ヲ始メ奉リ、諸士ニ至ルマテ悲歓カキリナシ」とある。
なお、武田氏滅亡時に甲斐御寮人の縁を頼って上杉家に逃れてきた信玄七男(六男説有)で菊姫弟の信清は、姉の力もあってか上杉家で優遇され、子孫は上杉藩主親族の高家衆筆頭として幕末まで続いている。
法名は大儀院殿梅岩周香大師。始め京都妙心寺亀仙庵に埋葬、後に米沢の林泉寺に改装された。
俗説として、側室が男子(定勝)を懐妊した事を悲嘆して自害したという話があるが、たまたま定勝誕生と菊姫の死の時期が重なったに過ぎず、根拠はない。 歌舞伎の『本朝廿四孝』のヒロイン「八重垣姫」は菊姫がモデルとされる。
菊姫(きくひめ、天正6年(1578年) - 天正12年8月21日(1584年9月25日))は、前田利家の六女。羽柴秀吉の養女。母は利家の側室の隆興院。
前田利家の子に生まれ、子供が無かった羽柴秀吉の養女となるが、1584年にわずか7歳で没した。