内藤政長
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内藤 政長(ないとう まさなが、1568年(永禄11年) - 1634年12月7日(寛永11年10月17日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。父は伏見城攻防戦で戦死した内藤家長(政長は家長の長男)。母は松平忠長の娘。
官位は左馬助。1584年の小牧・長久手の戦いで初陣し、功績を挙げた。朝鮮出兵では肥前国名護屋城に駐屯した。1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で父が鳥居元忠や松平家忠らとともに戦死したため、その後を継ぐこととなった。関ヶ原の戦いで政長は下野国宇都宮で上杉景勝の南下に備え、戦後に戦死した父、並びに自身の功績を賞されて1万石の加増を受けた(所領は上総国佐貫3万石)。
1614年、大久保長安事件で大久保忠隣の孫娘を娶っていたことから安房国館山の里見忠義が改易されると、館山城の破却を命じられて行ない、本多忠朝(本多忠勝の子)と共に里見氏改易後の安房の統治を任された。
1614年、大坂冬の陣が始まると安房の留守を任された。翌年の大坂夏の陣では、江戸城の留守居役を任された。それらの功績により戦後の同年、1万石を加増された。1619年には5000石を加増され、4万5000石を領する大名となった。1620年、筑後国柳川藩の田中忠政が嗣子無くして没したため、田中氏は改易となった。このとき、政長は城の受け取りを務めている。
1622年、陸奥国磐城平藩7万石に加増移封された。1634年10月17日、67歳で死去。法名は養誉堆安道山大居士。墓地ははじめ岩城菅ノ沢の善昌寺。後に鎌倉市の光明寺に移葬。
父のために菩提寺である善昌寺を創建し、岩城の治世期に七浜海岸に立てたという道山林という防風林がある。