船田元
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生年月日 | 昭和28年(1953年)11月22日 |
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出生地 | 栃木県宇都宮市 |
出身校 | 慶應義塾大学大学院 文学研究科修士課程修了 |
学位・資格 | |
前職・院外役職(現在) | 学校法人船田教育会理事長 兼作新学院学院長 自由民主党憲法調査会会長 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
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世襲の有無 | 三世 祖父・船田中 大叔父・船田享二 藤枝泉介 父・船田譲 (祖父・中の地盤を継承) |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
栃木1区 |
当選回数 | 9回 |
所属党派(現在) | 自由民主党→ 新生党→ 新進党→ 無所属→ 自由民主党(津島派) |
党役職(現在) | 党組織本部長代理 |
会館部屋番号 | 衆・第二議員会館208号室 |
ウェブサイト | 船田元・F-Project.Net |
船田元(ふなだ はじめ、昭和28年(1953年)11月22日 - )は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員。
[編集] 概要
栃木県知事などをつとめた船田譲の長男。船田家は栃木県の名門政治家一族で、祖父船田中は、大野伴睦派に所属し、大野の死後、一派を率い中間派の長老として、自民党副総裁や衆議院議長を歴任した。船田中の弟、船田享二は国務大臣、その下の弟、藤枝泉介は自治大臣をつとめ、「船田三兄弟」と称された。
栃木県立宇都宮高等学校を経て、1976年、慶應義塾大学経済学部卒、1984年、慶應義塾大学大学院教育学専攻修士課程修了。船田家が創設した作新学院総務部長や副院長をつとめる。(現・理事長兼学院長)
1979年、祖父・中の地盤を引き継いで衆議院議員に旧栃木一区から出馬して当時最年少の25歳で初当選。旧船田グループを経て、田中派、竹下派に所属し、自民党青年局長、文部政務次官を歴任する。中村喜四郎らと並んで早くから竹下派のプリンスとして将来を嘱望された。小沢一郎を会長とする「小沢調査会」の座長となり、国際貢献策の取りまとめ役をしたことを機に、小沢一郎の側近となっていく。
船田が、一層注目されたのは、竹下派分裂の時である。羽田孜・小沢陣営に加わり、スポークスマンとして、小渕恵三側の橋本龍太郎と丁々発止のやり取りで一歩も引かなかったことが評価された。
宮沢喜一改造内閣で経済企画庁長官に任命。反主流派閥に属していたにも関わらず、宮澤喜一嫌いであり、それまでの史上最年少入閣記録保持者の田中角栄へのあてつけとして、当時戦後史上最年少で入閣を果たした。政治改革を巡り、羽田派は宮沢内閣不信任案に同調。船田は経企庁長官を辞任し、羽田派の一員として自民党を離党し新生党結成に加わった。新生党では、国会対策委員長にあたる政務幹事として小沢代表幹事を補佐した。
1994年12月、新進党の結党に参加するが、この頃から次第に小沢一郎との間に齟齬をきたすようになり、新進党党首選では、羽田陣営に参加した。また、新党さきがけの鳩山由紀夫との間で新党(「鳩船新党」)を結成し、広く改革派を結集しようとする動きをしたが、船田は、あくまで新党は政治的に新保守主義の路線を取るべきだと考え、鳩山と対立をきたしたため、新党構想は頓挫した。
1996年9月に新進党を離党し、無所属で当選。同年11月、新会派「21世紀」を経て、翌1997年1月、自民党に復党した。畑恵(元NHKアナウンサー)との不倫の末、前妻と離婚して畑と結婚したが、これら「政界失楽園」と言われた一連の騒動が影響して、平成12年(2000年)民主党新人の水島広子に敗れ落選、名門・船田家の初の敗北となったが、その後、2003年の総選挙から国政復帰。2005年の総選挙では、宿敵水島に比例復活を許さないほどの大差で完勝した。
1998年、無派閥ながら山崎派結成に奔走し、同じ栃木選出の国井正幸参議院議員を、旧渡辺派から山崎派へ取り込むなどの功績を果たす。しかし、自身の落選と、2001年、同じく山崎派所属だった妻・畑が参院選で比例下位に回されたことで(その後、無所属で出馬し落選)、次第に山崎派とは疎遠になり、同派を離脱。議員復帰後は橋本派(現津島派)入りし、派の人材不足や党の憲法改正問題などへの取り組みなどで、党務と閥務を着実にこなし復権した。
現在は自民党憲法審議会会長として活動。自民党の次世代を担う人材として表舞台への復帰が待望されている。