船田中
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船田 中(ふなだ なか、明治28年(1895年)4月24日 - 昭和54年(1979年)4月12日)は、昭和期の政治家。衆議院議員、第51代・第56代衆議院議長(在任期間1963年12月7日~1965年12月20日、1970年1月14日~1972年11月13日)、自由民主党副総裁。「船田三兄弟」の長兄。従二位勲一等旭日桐花大綬章。名前の「中」は「あたる」とも読まれるが、これは単なる誤読。
[編集] 来歴・人物
明治28年(1895年)4月24日、船田兵吾の長男として栃木県宇都宮市に生まれる。大正7年(1918年)東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年内務省に入省する。昭和3年(1928年)東京市助役、昭和4年(1929年)東京市長代理を経て、昭和5年(1930年)第17回衆議院議員総選挙に立候補し当選する。以後当選15回。
戦前は立憲政友会に所属し、昭和12年(1937年)には、第1次近衞内閣の法制局長官に就任する。昭和15年(1940年)大政翼賛会政策局内政部長をつとめる。1945年に護国同志会を結成。戦後、日本協同党の結成に参加するが公職追放される。
昭和26年(1951年)追放が解除となり、翌昭和27年(1952年)第25回衆議院議員総選挙で自由党から立候補し当選、政界復帰を果たす。昭和30年(1955年)保守合同に伴い自由民主党に参加。大野伴睦派に所属する。同年第3次鳩山内閣の防衛庁長官に就任。また、自民党外交調査会長、安全保障調査会長を歴任し、親台湾・大韓民国派、タカ派としての立場を取った。
第51代・第56代の衆議院議長に選出される。昭和52年(1977年)には自民党副総裁に就任した。作新学院理事長も務め、昭和53年(1978年)には、江川騒動でも渦中の人となった。
澄夫人は第24代衆議院議長・元田肇の娘。衆議院議員、ローマ法学者の船田享二、衆議院副議長、自治大臣の藤枝泉介は弟。栃木県知事の船田譲は長男。衆議院議員の船田元は孫である。
[編集] 栄典
- 年月日不明(明治憲法時代) - 叙・正五位 / 叙・勲二等
- 昭和40年(1965年)4月29日 - 叙・勲一等 / 旭日大綬章受章
- 昭和48年(1973年)4月29日 - 旭日桐花大綬章受章
- 昭和54年(1979年)4月12日 - 叙・従二位 / 賜・銀杯一組