第6回十字軍
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第6回十字軍(だい6かいじゅうじぐん、1228 - 1229年)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、破門されたまま遠征した十字軍で、戦闘はほとんど行わず、交渉によりエルサレムを取り戻すことに成功した。
[編集] 背景
第5回十字軍(1217 - 1221)は失敗に終わり、その原因の一つとして、教皇ホノリウス3世との交渉により1220年に皇帝に戴冠し、十字軍遠征を誓いながら出発しなかったフリードリヒ2世が非難された。ホノリウス3世も破門をちらつかせて、新たな十字軍の遠征を迫った。
しかし、元々宗教的に寛容なシチリア王国に育ったフリードリヒ2世は十字軍には熱狂せず、十字軍をイタリア政策における教皇との交渉材料として認識しており、地中海からパレスティナに神聖ローマ帝国=シチリア王国の勢力を拡大することを目的としていた。
1225年にはエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの要請に応えて、その娘でエルサレム女王であるイザベル2世と結婚し、エルサレム王位を得た。しかし、さらに2年間の引き延ばしを行い、1227年に出発してブリンディシュまで行ったが、疫病が流行したため引き返してしまった。同年に友好的だったホノリウス3世が亡くなり、新たに教皇となったグレゴリウス9世は強硬派として知られており、この延期を誓約違反としてフリードリヒ2世を破門にした。
[編集] 破門十字軍
フリードリヒ2世は破門を解くべく教皇と交渉を行ったが成功せず、遂に1228年6月に破門のまま十字軍に出発した。しかし破門された皇帝による十字軍に抵抗を感じて、帰国する者も多かった。9月にアッコンに到着したが、ここでも聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は従わず、現地諸侯も協力に消極的だった。
しかしフリードリヒ2世には、かねてからアイユーブ朝とのコネクションが有り、出立前には既に予備交渉が行われていた。スルタンのアル・カーミルは当時シリアの兄弟達と争っており、同盟を条件にエルサレムを返還する意向だった。ちょうどこの時期に、対立していた兄弟の1人であるダマスカスの領主が亡くなり、有利な状況になったアル・カーミルとの交渉は難航した。しかし、アル・カーミルはモンゴルの脅威を感じており、ダマスカスも簡単に陥落しなかったため、1229年2月にエルサレム(岩のドームを除く)、ナザレ、シドン、ヤッファ、ベイルートを割譲する条件で10年間の休戦条約を締結した。
平和哩にエルサレムの奪回に成功したが、キリスト教徒側における評価は低かった。「イスラム側がこれほど弱気なら戦闘で勝利すれば、旧エルサレム王国領全てを取り戻せたかも知れない。」、「最初から馴れ合いであり、十字軍の目的はイスラム教徒と戦うことである。」、「城壁もないエルサレム(1217年にイスラム側により破壊されている)といくつかの都市を返還されても、これを維持するのは難しい。」と言った批判が行われた。特にローマ教会側は破門皇帝の業績を認めなかった。
1229年3月にフリードリヒ2世はエルサレムに入城し、戴冠式を行ったが、エルサレム総司教や聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団の総長は出席しなかった。イザベル2世は前年、コンラートを生んだ後に亡くなっているため、王としての正統性も疑わしく、現地諸侯の反応も芳しくなかった。わずかにドイツ騎士団総長などが出席する中で、自らの手でエルサレム王に戴冠した。
間もなく、イタリアにおいて教皇派と皇帝派の争いが再燃したため、フリードリヒ2世はアッコンなどに代官をおいて5月に帰国の途についた。
[編集] その後
フリードリヒ2世は、イタリアにおける教皇との争いに忙殺された。1239年に休戦期限が切れた後、1244年にモンゴルに追われて流浪して来たホラズムの一派がエルサレムを占領し、略奪と破壊を行った。聖墳墓や歴代エルサレム王の墓は破壊され、貴重品は持ち去られ、キリスト教徒の多くは殺害された。