ジャン・ド・ブリエンヌ
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ジャン・ド・ブリエンヌ(1148年 - 1237年)は、エルサレム王(在位:1210年 – 1212年)及びラテン帝国の第6代皇帝(在位:1231年 - 1237年)。
もとはフランスのシャンパーニュの騎士であったが、フランス王フィリップ2世の命を受けて、60歳のとき十字軍に参戦してシリアで活躍した。その功績から、1212年にエルサレム王国の王女マリー(エルサレム王コンラードの娘)と結婚し、エルサレム王に即位した。
即位後は衰退傾向にあるエルサレム王国の再建に努め、1219年には第5次十字軍にも参戦して功績を挙げた。しかし斜陽してゆくエルサレム王国を独力で維持することは難しく、ブリエンヌはマリーとの間に生まれた娘イザベルを時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と結婚させ、その力を後ろ盾にしようとしたが、かえってフリードリヒ2世にエルサレム王国の権力全てを掌握され、エルサレム王を退位することを余儀なくされてしまった。
その後1229年、ラテン帝国の摂政となり、3番目の妻ベレンガリア(レオン王アルフォンソ9世とカスティーリャ女王ベレンゲラの娘)との間に生まれた娘のマリーを皇帝ボードゥアン2世ド・クルトネーと結婚させた。1231年には、まだボードゥアン2世が15歳という少年であったことから共同皇帝として即位し、政治を取り仕切る立場に立った。
1235年から1236年にかけて、ニカイア帝国のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスとブルガリア帝国の連合軍に首都コンスタンティノポリスを攻められて滅亡の危機を迎えたが、ブリエンヌは防衛に徹し、ラテン帝国の危機を救った。翌年、90歳という高齢で死去した。
ブリエンヌは、60歳という高齢になってから活躍が多く、十字軍の戦士の中では有能な戦士として評価されている。
- 生誕年は明確ではない。1148年との記録もあるが、初婚が60歳を越えてからということになり、あまりに高齢で信じがたい。他に1170年前後との説があり、この辺が妥当に思われる。