神秀
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大通神秀(だいつうじんしゅう、606年(大業2年) - 706年(神龍2年))は、汴州(開封)陳留尉氏県出身で俗姓は李氏。中国禅宗北宗における六祖(北宗としては開祖)。
[編集] 生涯
- 618年(武徳元年)、13歳の頃に出家する。
- 625年(武徳8年)、20歳で洛陽の天宮寺において具足戒を受ける。
- 655年(永徽6年)、50歳で蘄州(湖北省)東山の五祖弘忍の門下に入り、その筆頭弟子となり、「彼に及ぶ弟子はいない」と師に評されるまでになった。
- 661年(龍朔元年)頃、56歳で、師のもとを去り、『伝法宝紀』によれば、秘かに還俗したとか、荊州(湖北省)の天居寺に住していたというが、その後、10年ほどの行動は確かでない。
- 674年(上元元年)、師の弘忍が没する。
- 676年(儀鳳元年)頃、荊州当陽山の玉泉寺に住し、その後、近くに度門蘭若を建立してそこに移った。
- 700年(久視元年)、94歳で則天武后に招かれ、翌年、95歳で上京を果たした。彼は肩輿にて内道場に上殿し、北面して臣礼をとることなく、長安・洛陽の「両京の法主」となり、また、武則天、中宗、睿宗の「三帝の国師」となった。度門蘭若は度門寺に昇格した。
- 706年(神龍2年)2月、101歳で洛陽の天宮寺で没すると、中宗は詔して龍門山に葬り、岐王範、張説、盧鴻の3人が碑誄を撰した。3月、諡して大通禅師の号を、度門寺には勅額を賜った。
[編集] 思想
彼の禅法は段階的に悟りを進める「漸悟」であり、弟弟子の六祖慧能の直下に悟りに至る「頓悟」思想と対極を為した。(この点を、『壇経』では、神秀の「身は是れ菩提樹、心は是れ明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」と、慧能の「菩提本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」の偈によって象徴している) 当初は彼が六祖とされていたはずなのだが、後に六祖慧能の弟子で七祖を自称した荷澤神會の北宗批判により、それまでは区別のなかった東山法門派が神秀門下の「北宗」、慧能門下の「南宗」の二派に分かれるようになり、南宗開祖の慧能が神會の目論見通り、六祖となった。
彼の後は弟子の普寂が嗣ぎ、日本にも奈良時代・平安初期に伝わり、日本天台宗の開祖最澄も師の国分寺行表から北宗禅の思想を受け継いでいる。
[編集] 伝記資料
師:黄梅弘忍 | 禅宗 | 弟子:普寂 |