最澄
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最澄(さいちょう、男性、神護景雲元年8月18日(767年9月19日) - 弘仁13年6月4日(822年6月26日))は、平安時代の僧で、日本の天台宗を開く。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。
12歳のとき近江国分寺に入り、行表(ぎょうひょう)の弟子となり、14歳のとき国分寺僧補欠として得度し名を最澄と改めた。
19歳のとき(延暦4年(785年))、東大寺で具足戒を受ける。同年7月、比叡山に登り山林修行に入り、大蔵経を読破。
797年、内供奉(ないぐぶ)十禅師。
802年、高雄山寺(神護寺)法華会(ほっけえ)講師。入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。
804年7月、通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発。9月明州に到着。天台山に登り、湛然の弟子の道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)について天台教学を学ぶ。さらに道邃に大乗菩薩戒を受け、翛然(しゅくねん)から禅、順暁(じゅんぎょう)から密教を相承する。
805年5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創する。7月に上洛、滞在中に書写した経典類は230部460巻。帰国当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。
大同元年(806年)1月、最澄の上表により、天台業2人(止観(しかん)業1人、遮那(しゃな)業1人)が年分度者となる。これは南都六宗に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。
このころ、空海から、真言、悉曇(しったん)(梵字)、華厳(けごん)の典籍を借り、研究する。
弘仁3年(812年)の冬、弟子の泰範、円澄、光定(こうじょう)らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂(かんぢょう)を受ける。
813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相入れなかった。
815年、和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。その後東国へ旅立つ。関東で鑑真ゆかりの上野の緑野(みとの)寺や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。
法相宗(ほっそうしゅう)の学僧会津徳一(とくいつ)との間に、三一権実(さんいちごんじつ)の論争。徳一が『仏性抄』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『照権実鏡』(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、比叡山へ帰った後も続き、『法華去惑』(こわく)『守護国界章』『決権実論』『法華秀句』などを著したが、決着が付く前に最澄も徳一も死んでしまったので、最澄の弟子たちが徳一の主張はことごとく論破したと宣言して論争を打ち切った。徳一の側には後継者がいなかったため、この論争は決着が付いていないままである。この論争の記録は最澄の著書に徳一の文章の引用があるのみで、徳一の書いたものは残っていない。
天台宗は悪名高い隋の第二代皇帝煬帝(604-618)の命により智顗が開き、法相宗は玄奘の弟子の窺基(632‐682)の開いた、それぞれの時代から分かるように法相宗の方が遥かに新しい宗派である。ところが最澄は南都仏教に天台宗はなかったため、最澄が勘違いしたものと思われる。
818年、みずから具足戒を破棄。『山家学生式』(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。
南都の僧綱から反駁にこたえて『顕戒論』を執筆。『内証仏法血脈譜』を書いて正統性を説く。
弘仁13年6月4日(822年6月26日)、比叡山の中道院で没。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子の光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。
貞観8年(866年)、伝教大師の諡号(しごう)が贈られた。