神奈川県立希望ヶ丘高等学校
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神奈川県立希望ヶ丘高等学校(かながわけんりつきぼうがおかこうとうがっこう)は、神奈川県横浜市旭区にある県立高等学校。1897年創立から、神中、神奈川一中、横浜一中以来の伝統を汲む、神奈川県で最も歴史の長い公立高校である。旧横浜西部学区のトップ校であり、全日制(普通科)と定時制(普通科)がある。 所在地は横浜市旭区南希望が丘79-1
開校日は6月18日で、偶然ではあるが、京都帝国大学(当時)と同じ年月日に開かれたことになる。
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[編集] 校風
[編集] 概要
神奈川県尋常中学校として、現在神奈川県教育会館がある横浜市西区藤棚につくられた。その後、名称を神奈川県中学校(1899年)、神奈川県第一中学校(1900年)、神奈川県立第一中学校(1901年)、神奈川県立第一横浜中学校(1913年)、神奈川県立横浜第一中学校(1923年)とかえる。1923年9月1日の関東大震災により、校舎は大きな被害を受けた。1945年5月29日の横浜大空襲によって校舎焼失。現在の横浜市金沢区への移転を余儀なくされた。戦後、神奈川県立横浜第一高等学校(1948年)、神奈川県立希望ヶ丘高等学校(1950年)と改称し、男女共学となる。1951年9月、横浜市保土ヶ谷区二俣川町中野原へ移転した。 現在の希望が丘という地名は、本校移転に伴って地名が変更されたという説もある。
1969年の秋、旧理科棟前バリケード封鎖から始まった学園紛争により、生徒・教員間で幾度もの議論がたたかわされ、各種規約の改正が行われた。主な改正点としては、生徒心得の廃止、中間テストの廃止、学力評価についての見直し、また強制的な制服は標準服とあらためられ、私服での登校が認められるようになったことが挙げられる。その後、皇国主義的な歌詞が含まれていた校歌を廃し、10年以上の校歌なしの時期を経て新校歌が制定された。
県立高校の新設に伴い、理由は定かではないが後発の高校に学力で差をつけられ、1974年度の新入生は定員を割り込むにいたり、古くからの「一中ファン」を嘆かした。しかしそれでもその中から現役で東大合格者を出すなど気を吐いた。 神奈川県の中枢部や議会関係者にも希望が丘ゆかりの人物が多いせいか、横浜地区の学区の解体・再編により、希望が丘の地位を脅かしていた学校を他学区に追出し、西部学区のトップ校になり、その後学区消滅までその地位は揺るがなかった。
この再編は希望が丘救済だったと揶揄する声も当時ささやかれた。
なお、テストについては現在では科目担当者の裁量に委ねられているが、神奈川県内の公立高校で行われる共通テストには参加していない。
1997年に創立100周年を迎え、1998年には『神中・神高・希望ヶ丘高校百年史 資料編』および『神中・神高・希望ヶ丘高校百年史 歴史編』が刊行された。
[編集] 沿革
- 明治30年2月23日 神奈川県尋常中学校を久良岐郡戸太町(現在の横浜市西区藤棚町)に設置する旨告示
- 明治30年5月3日 授業開始・生徒総数280名
- 明治30年6月18日 開校式を挙行(この日を開校記念日とする)
- 明治32年2月6日 神奈川県中学校と改称
- 明治33年4月1日 神奈川県第一中学校と改称
- 明治34年5月7日 神奈川県立第一中学校と改称
- 大正2年4月1日 神奈川県立第一横浜中学校と改称
- 大正12年4月1日 神奈川県立横浜第一中学校と改称し、20学級生徒定員1000名と改める。
- 大正12年9月1日 関東大震災にて校舎倒壊、著しく破損
- 昭和2年5月5日 校舎全部の改築に着手
- 昭和3年12月14日 校旗制定
- 昭和4年1月25日 全校舎竣工
- 昭和7年10月9日 創立35周年記念式を挙行
- 昭和9年2月12日 校歌制定(作詞佐佐木信鋼、作曲山田耕筰)
- 昭和20年5月29日 空襲により校舎罹災焼失
- 昭和20年7月2日 横浜市戸部国民学校の一部を借用し、授業を行う。
- 昭和21年4月1日 横浜市磯子区六浦町内川元第一海軍技術廠工員養成所宿舎跡に移転
- 昭和23年4月1日 学制改革により神奈川県立横浜第一高等学校と改称。本校に併設中学校を設け、本校校長が兼任
- 昭和24年3月31日 併設中学校第3学年卒業とともに本校併設中学校は自然廃校
- 昭和25年4月1日 神奈川県立希望ヶ丘高等学校と改称。本年度より学区制と男女共学とを実施
- 昭和26年9月11日 現在地の横浜市保土ケ谷区二俣川町中野原に於ける新校舎の第一期工事完了
- 昭和26年9月19日 金沢校舎(磯子区六浦町)より移転
- 昭和26年10月24日 新築落成祝賀記念式を挙行
- 昭和30年2月1日 部室棟完成
- 昭和31年7月23日 部室棟増築完成
- 昭和32年9月30日 体育館兼講堂完成
- 昭和32年11月8日 創立60周年並びに体育館兼講堂落成祝賀記念式を挙行
- 昭和38年4月1日 横浜市内に中学区制施行、横浜中部学区(本校の他、平沼、桜丘、戸塚)に属す。
- 昭和42年6月16日 創立70周年記念式を挙行
- 昭和44年12月31日 普通教室棟及び給食棟完成
- 昭和46年3月31日 管理棟及び特別教室棟(I)完成
- 昭和48年3月23日 特別教室棟(II)完成
- 昭和49年5月31日 格技場完成
- 昭和50年11月19日 管理棟(II)完成
- 昭和52年11月12日 創立80周年記念式を挙行
- 昭和54年9月27日 新部室完成
- 昭和54年12月4日 新体育館完成
- 昭和56年4月1日 新学区制実施、横浜西部学区に属す。
- 昭和57年5月31日 創立85周年記念事業として、テニスコート3面増設
- 昭和59年2月29日 自転車置場新設
- 昭和60年3月1日 新校歌制定(作詞飯田侑、作曲三善晃)
- 昭和62年11月14日 創立90周年記念式を挙行
- 平成元年3月29日 文化系部室完成
- 平成9年10月25日 創立100周年記念式を挙行(パシフィコ横浜国立大ホールで開催)
- 平成16年4月1日 二期制開始
[編集] 施設
- A棟
- B棟
- C棟
- D棟
- E棟
- 新体育館
- 旧体育館
100周年記念事業で旧体育館を取り壊し、セミナーハウス(多目的施設)を建設するという計画があったが、立ち消えとなった。(理由は不明) 最近床が張り替えられたが、建物全体の老朽化は激しく、いつ事故が起こってもおかしくない状況である。
- 格技場
柔道・剣道用の建物。更衣室もある。校内の他の施設と同様、古さは否めない。
- テニスコート
学校敷地南側に位置している。地面は砂地のため、雨が降ると使用できないことがある。
- バレーコート
学校敷地北側に位置している。地面は砂地であるが、水捌けが良い。部活動で使用することは多くなく、他の生徒も使い易い。水銀灯の証明設備があるため夜間の使用にも適している。
- プール
25m×6コースのプール。水底を近年改修済だが、如何せん付属の施設が古いため見劣りする。周囲には木々が生い茂り、10月頃になると水面は枯葉で埋まる。
- 校庭(グラウンド)
約63000平方メートルもの広大な面積をほこる。県立高校では最大の面積とされる。外周に沿って桜の木が約160本ほどあり、入学式の季節になると校庭がピンクで染まり、近隣住民の散歩コースになる。
- トラック
グラウンドの東側に位置している。未舗装だが、長年踏み固められただけあって、地面はしっかりしている。
- 弓道場(射場)
学校敷地南西側に位置する。意外に目立たない。
- 新部室
グラウンドに面して建っている。主としてグラウンドと新体育館を使用する運動系部活動の部室である。施設は新しいが、校舎や食堂からやや遠い。
- 旧部室
食堂と旧体育館に面して建っている。新部室使用以外の運動系部活動が使用する部室である。施設は古いが食堂が近く、利便性は高い。
- 食堂
定時制を有する公立校の特色の一つとして存在する。自販機もあり、メニューも豊富で非常に便利である。ただ、心ない生徒の所為で、使用済みの食器が校内で散見される。
[編集] 校歌
[編集] 行事
- 陸上競技大会…大和市スポーツセンター競技場で開催
- 記念祭…毎年開校記念日である6月18日近辺に本校敷地で開催
- 前庭パフォーマンス
- 屋台・出店
- 後夜祭
- 合唱祭
- 球技大会
- 水泳大会
[編集] 部活動
部活動加入率は県内有数で、運動部加入率は県内で1番と言われている。 陸上競技部は、インターハイにも度々出場し、国体神奈川代表選手も輩出している。剣道部・男女ハンドボール部・ソフトボール部・弓道部等も関東大会の出場経験がある。また、文化部では、吹奏楽部が2005年に東日本大会に出場した。なお、本校の吹奏楽部は全国的にも珍しい学生指揮者の形態をとっており、大会・演奏会等すべてを生徒の指揮で演奏している。 この様に部活動は大変盛んだが、反面部活動を頑張りすぎて勉強が疎かになっている生徒が散見される。
- 運動部
- 文科部
[編集] 出身者
- 相沢英之(元経済企画庁長官、元大蔵事務次官、弁護士)
- 飛鳥田一雄(元横浜市長、日本社会党委員長)
- 有森也実(女優)→明大中野へ転校。
- 杏里(歌手)
- 伊藤かずえ(女優)(中退)
- 来栖三郎(元駐ドイツ大使、元外務省通商局長)
- 黛敏郎(作曲家)
- 山本鎮彦(元警察庁長官)
- 山本周五郎(作家、直木賞辞退)
- 渡邉美樹(ワタミフードサービス創業者)
- 山田和樹(指揮者)
- 山下和美(漫画家)
- 佐々木太一(バレーボール日本代表)
- 滝本太郎(弁護士)
- 松隈秀雄(大蔵次官(昭和19))
- 本間精(内務省警保局長(警察庁長官に相当)、福岡県知事)
- 三浦義秋(駐漢口総領事(昭和9))
- 平川守(農林事務次官)
- 小室恒夫(通産省通商局長、新日鉄化学会長・社長)