甲子園競輪場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
甲子園競輪場(こうしえんけいりんじょう)は、かつて西宮市南甲子園1丁目にあった競輪場である。競輪開催のために造られた施設だが、ほんの一時期だけ、オートレースが開催されたこともある。
[編集] 概要
西宮市などが中心となり、前年西宮球場に特設した競輪バンクで開催した西宮競輪場に次ぐ兵庫県2番目の競輪場として、阪神甲子園球場より浜手に向かってやや離れた場所に「鳴尾競輪場」として建設した。1951年に「甲子園競輪場」に改称された。
施設の管理は「甲子園土地企業」(元大証上場企業、現在は解散)が行い、施行者である兵庫県市町競輪事務組合が施設を借用する形で開催していた。
甲子園土地企業は競輪場東側に自動車学校を併設して運営を行い、競輪開催日はこの自動車学校内の施設も有料駐車場として開放(自動車学校は学科教習か路上教習のみ)し、また阪神甲子園球場でのプロ野球、高校野球などイベント開催日にも有料駐車場として開放していた。
甲子園駅から徒歩10分程度の距離であり、駅から歩いて向かう人も多かったが、開催日には甲子園駅から阪神電鉄バスによる無料送迎バスが運行されていた。現在でも、競輪場跡地北側の道路上に、甲子園駅行きの送迎バス乗り場が残されている(一箇所だけ不自然に屋根がある場所。当然現在ではバスは発着しない)。
また、夕方には阪神電鉄が甲子園駅に特急を臨時停車させて利用客の便宜を図っていた。
この他、甲子園競輪場廃止後、兵庫県道341号甲子園尼崎線(臨港線)上にあった「競輪場前」バス停も「南甲子園一丁目」に改称されている。
更に非開催日には有料駐車場としての開放以外に、1990年代後半まで、以下のような形で施設を一般開放し有効活用していた。
- なお、午前中は競輪選手が練習に使用するため、基本的に午後からの営業であった。
記念競輪(GIII)として、甲子園ゴールデン杯が開催されていた。
[編集] 歴史
鳴尾競輪場として、1949年6月に500mバンクとして開設された。開設当初はバンク内に池があったが後に廃止されている(現在でもバンク内に池があるのは、中部地方の競輪場に多く見受けられる)。また、3・4コーナーをゴール前に寄せて改修され、400mバンクとなる。
1950年、競輪史に最大の汚点を残した「鳴尾事件」が発生(後述)。それまで「キョウリン」と呼ばれていた(事実、鳴尾競輪の開催告知で「きょうりん」とふりがなを付けていた新聞もあった)競輪が、この鳴尾事件以後、『恐輪』とか『狂輪』と揶揄されるようになったため、「ケイリン」と呼び改められるようになったきっかけを作った事件であった。
その後、鳴尾事件を受けて競輪は暫く開催を(全国的に)休止し、鳴尾競輪場も当然に廃止は必至と言われたが、1951年に甲子園競輪場と名称を改めることで決着、のちレースを再開することとなる。
当初は周辺住民に配慮し、わざと甲子園駅から離れた周囲が田圃だらけの現地に開設したが、結局は競輪場周辺まで宅地化の波が押し寄せ、住宅が密集したことから地元との軋轢がたびたび起こった。
1969年に予定されていた特別競輪(現在のGIレースに相当)「都道府県対抗選抜競輪」(現在の全日本選抜競輪の前身)の開催に際しては周辺住民から開催反対の住民運動が起こり、大会直前になって中止されるハプニングが起こった。以降1985年まで、他場では必ず行われている記念競輪(現在のGIIIレース)すらも開催されなかった。
また1988年にはKEIRINグランプリを関東以外で初めて開催することも一旦は決定しながら、やはり周辺住民の騒音対策や警備・施設面で不安が残るという理由で立川競輪場に会場変更されたという経緯もあり、なかなか特別競輪とは縁遠かった。
その後、1993年に北側スタンド改築に併せて特別観覧席を設置するなど施設の改善を図り、1999年には待望の特別競輪・第42回オールスター競輪の開催にこぎつけた(優勝者は神山雄一郎)。この開催では台風接近で決勝戦が一日延期され、決勝戦のテレビ中継はテレビ東京系列では行われず、地元兵庫県ではテレビ大阪ではなくサンテレビが発走直前から30分間だけ中継した。
だが、競輪の収益は1990年代中盤から頭打ちとなり、年々減少の一途で、ついに収支が赤字転落の危機を迎え、一時は廃止が噂され大騒ぎとなるが、存続に方針転換する。収支改善のため、西宮競輪場ではそれまでなかった特別観覧席の新設、一部発売窓口を閉鎖、組合員(競輪場の従業員)を全員解雇のち再雇用するなど、収支改善に努めたがそれでも好転せず、最終的に施設を抱える西宮市市長の山田知(やまだ さとる)が撤退を決断する。後に主催者の兵庫県市町競輪事務組合が、財政難を理由に競輪事業からの撤退を正式に表明し、2002年3月の開催を最後に西宮競輪とともに廃止された。
現在は、隣接していた旧自動車学校敷地と併せて、跡地に大規模マンションや戸建が分譲されている。
[編集] 鳴尾事件
鳴尾事件は、鳴尾競輪開催当日の1950年9月5日第10R、ある本命視された選手のクランクピンが外れてレース続行が不能となったことに端を発した。その本命選手がレースのやり直しを要求するも却下されレースは続行された。結果、払戻金が万車券となったため、レース直後からこれに納得出来ない一部のファンが「八百長だ!!」と抗議し騒ぎ出した。
しかし、主催者の武庫郡鳴尾村(当時。この事件の影響もあり1951年4月1日に西宮市に編入される)は事件発生後もこの件についてはファンの抗議を無視して最終レースまで「議事進行」とし、何事もなかったかのように最終レース(12R)まで実施してしまった。この主催者の対応のひどさに業を煮やしたファンは怒りが収まらず、最終レース終了後に一部が暴徒化した。
その後、元々待機していた消防車がガソリンを抜き取られた上に横倒しにされたり、車券発売窓口が襲撃されるなどした。その上、当時の木造スタンドが放火され全焼、危険なためスタンド内に待機していた車券発売窓口の女性が逃げ遅れて犠牲者が出るなど大惨事へと発展した。
更に、威嚇のため出動した一人の警察官が発砲したところ流れ弾が観客に命中し死亡したことから、より騒ぎが大きくなってしまい収拾がつかなくなり、最終的に駐留米軍も出動するほどの異常事態となってしまった。結果的に、250名もの観客が逮捕された。
この事件直後に国会で糾弾され、全国紙での社説でも「競輪を廃止せよ」と一斉に叩かれた。当時の吉田茂首相も競輪廃止をほのめかすなど、一時は競輪自体の廃止も取り立たされ、存続が危ぶまれた。鳴尾事件後、全国的に1日12R制をやめさせられたり、のちに当時の河野一郎農林水産大臣が「公営ギャンブルの開催は土日に限定させるべき」という動きに出た。また、特に1960年代前半にかけて近畿でも神戸、明石、住之江など多くの競輪場が休止・廃止に追い込まれるなど、爆発的人気を誇っていた競輪に著しく暗い影を落としてしまった事件であった。
ちなみに、近畿では岸和田競輪場でも、第9回全日本選抜競輪(青森)の場外車券を発売していた1993年7月31日(大会2日目)に暴動騒ぎが起きている。