田島道治
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田島道治(たじま みちじ、明治18年(1885年)7月2日 - 昭和43年(1968年)12月2日)は、大正、昭和期の日本の実業家、銀行家、教育家。戦後、第二代宮内府長官、初代宮内庁長官を歴任し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下にあって宮中改革に尽力した。
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[編集] 生い立ち
明治18年(1885年)7月2日愛知県名古屋市中区伊勢山町に田島五郎作、芳夫妻の三男として生まれる。生家の田島家は、三河国高浜に500年続いた旧家であったが、明治維新によって没落し、名古屋へ移っている。母芳は、田島が8歳のときに亡くなっている。東京府立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、明治43年(1910年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業する。東京帝大時代には新渡戸稲造に私淑し、新渡戸家に書生として住み込みをした。田島はキリスト教に受洗はしなかったが、新渡戸を敬愛し、新渡戸の死後、「故新渡戸博士記念事業実行委員会」を結成し代表となっている。
[編集] 銀行家として
明治44年(1911年)愛知銀行(のちの東海銀行、現在の三菱東京UFJ銀行)に入行し調査部長となる。大正5年(1916年)鉄道院総裁の後藤新平に引き抜かれ総裁秘書となり、大正8年(1919年)には後藤新平、新渡戸稲造、鶴見祐輔、岩永捨吉らとともに外遊をしている。帰国後の大正9年(1920年)愛知銀行に戻り常務取締役に就任した。
金融恐慌後の金融破綻の収拾策の一つとして昭和2年(1927年)井上準之助らの肝いりで昭和銀行が設立されると、田島は同銀行常務取締役、次いで頭取に就任し債権返済と厳格な基準による破綻銀行の査定を実施している。また、昭和銀行頭取の退職金を担保にして昭和12年(1937年)明協学寮という学生寮をつくり、人材育成を試みた。田島自身、週に一回、早朝論語の講義を行っている。
昭和13年(1938年)日本産金振興会社社長に就任する。同社は商工省監督下の国策会社であり、以後、田島は全国金融税制会理事、日本銀行参与などを歴任した。
[編集] 宮内庁長官
戦後の昭和21年(1946年)3月大日本育英会(現在の日本育英会)会長兼理事長事務取扱に任命される。また、同年7月には貴族院議員に勅選され、日本国憲法など重要法案審議に参加している。
昭和23年(1948年)6月芦田均首相によって宮内府長官に任命される。昭和天皇は宮内府長官・松平慶民と侍従長・大金益次郎を交代させることに難色を示していたが、芦田は宮中改革を実行するために交代を断行し田島が宮内府長官、三谷隆信侍従長のコンビが成立した。その後、宮内府は宮内庁と改称され、宮内省時代の官僚機構も縮小・改変されるが、田島は占領時代にあって、芦田の後、首相になった吉田茂と密接に連絡を取り合い、戦後の天皇、皇室を取り巻く諸問題に当たっていった。弱音を吐かないことでは天下一品と言われ、従来、侍従職などのいわゆる「オク」の力が強い宮中、宮内庁で長官官房に権限を集中させた。
昭和28年(1953年)に宮内庁次長の宇佐美毅を後任とし長官を辞任した。長官辞任後、請われて東京通信工業株式会社の監査役に就任する。これが後のソニーで、取締役会長、相談役を歴任し社内からは「会長さん」と親しまれた。
昭和43年(1968年)12月2日入院中の宮内庁病院で死去した。83歳。
[編集] 関連文献
- 『田島道治―昭和に「奉公」した生涯』 加藤恭子著 TBSブリタニカ、2002年、ISBN 4484024047
- 『昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』 加藤恭子著 文藝春秋、2003年、ISBN 4163655301
- 『昭和天皇と田島道治と吉田茂』 加藤恭子著 人文書館、2006年、ISBN 4903174042
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