大石良勝
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大石 良勝 (おおいし よしかつ、天正15年(1587年)頃 - 慶安3年8月23日(1650年9月18日))は、安土桃山時代・江戸時代初期の武士。常陸国笠間藩浅野家の筆頭家老。忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄の曽祖父。通称は内蔵助(くらのすけ)・新七郎(しんしちろう)・五左衛門(ござえもん)。
関白豊臣秀次の家臣大石良信の次男として誕生。母は近衛家家臣の進藤筑後守長治の娘志茂。兄に大石茂右衛門良照、弟に大石信云(47士の1人大石瀬左衛門の祖父)がいる。
庶子であるがために良勝ははじめ僧侶にされる予定で、石清水八幡宮の宮本坊に入れられていたが、本人は僧侶になることを嫌がり、慶長5年(1600年)に京都を脱走して江戸の浪人となった。慶長9年(1604年)、18歳の頃に浅野長政三男浅野長重(当時は下野国真岡藩主2万石で後に常陸国真壁藩5万石を経て常陸国笠間藩5万3千石)に仕える。はじめは300石の小姓であったが、元和元年(1615年)の大阪夏の陣における天王寺合戦では著しい武功をあげたため、1500石の筆頭家老となり、また良勝の子孫も代々筆頭家老の地位を約束されるという永代家老家とされた。慶安3年(1650年)8月23日に京都において死去。享年64。京都妙心寺に葬られた。法名は法徹院雪龐関。
伯父にあたる大石平左衛門良定の三女を妻に迎え、息子に大石良欽(赤穂藩浅野家筆頭家老)、大石良重(赤穂藩浅野家家老)、奥村具知(富山藩松平家家臣)、小山良秀(赤穂藩浅野家家臣・小山源五左衛門良師の養父)、大石良次(高松松平家家臣)の五人を儲けた。また娘も二人おり、それぞれ近衛家家臣の進藤筑後守長定(長治の孫)と赤穂藩士進藤源四郎俊式に嫁いでいる。
- 赤穂藩家老大石家初代当主
- 1604~1650
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- 先代:
- 大石良信
- 次代:
- 大石良欽