浅野長澄
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浅野 長澄 (あさの ながずみ、寛文11年12月1日(1671年12月31日) - 享保3年8月4日(1718年8月29日))は、江戸時代中期の外様大名。第3代備後国三次藩主(5万石)。通称は大助(だいすけ)、官位は従五位下・土佐守。
寛文11年(1671年)12月1日、安芸国広島藩主浅野安芸守綱晟(42万石)の次男として誕生(長男は浅野綱長)。母は左大臣九条道房の息女逸姫。 天和元年(1681年)2月12日はじめて将軍徳川綱吉に拝謁。三次藩第2代藩主浅野長照(5万石)は病弱で嫡子もなかったため、天和2年(1682年)8月6日、三次浅野家に養子に入った。 貞享2年(1685年)12月28日、従五位下土佐守に叙任。1691年(元禄4年)6月5日には幕府奥詰を務めたが、12月には養父長照の隠居により家督を相続。同時に奥詰を免ぜられ、藩政に集中する。 元禄5年(1692年)4月21日に暇をえて国許の備後三次に初めて入った。元禄11年(1698年)に備後国福山藩主水野勝岑が所領を没収された際には、福山城の城受け取りを命じられた。
元禄14年(1701年)3月14日、親戚の播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及び、切腹改易となると、浅野長矩の正室阿久里(のちの瑤泉院・三次藩初代藩主浅野長治の娘)を三次藩下屋敷に引き取った。宝永4年(1707年)12月28日、江戸城の浜御殿普請の功で時服10領を賜った。 享保3年(1718年)8月4日、三次陣屋にて死去。享年48。地元の鳳源寺に葬られた。法名は霖應熊山天柱院。妻は小笠原右近将監忠雄の娘。
[編集] 関連
- 浅野氏(三次藩3代)藩主
- 1691~1718
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- 先代:
- 浅野長照
- 次代:
- 浅野長経