浅野長経
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浅野長経(あさのながつね 宝永6年11月14日(1709年12月14日) - 享保4年4月23日(1719年6月10日))は、江戸時代の大名で、備後三次藩4代藩主である。3代藩主・浅野長澄の三男。幼名は撫三郎、又六郎。また官職名は夭折のため存在しない。
[編集] 経歴
浅野長経は3代藩主浅野長澄の三男として宝永6年(1709年)に三次で生誕した。長兄と次兄は早世したため、彼が長澄の嗣子となった。享保3年(1718年)に父が亡くなったためその遺領を継いで(この時、年齢を3歳偽って宝永3年(1706年)生まれとして幕府に届出された)、徳川吉宗にも拝謁した。しかし、享保4年(1719年)4月23日、江戸にて11歳で没し、嗣子が無かったため三次藩は除封されて本家の広島藩に還付された。法名は鳳章院孝岳紹胤。
その後三次藩は、長経の弟の浅野長寔への相続が認められて再興するものの、翌享保5年(1720年)に長寔が8歳で没したため再度除封となった。
- 浅野氏(三次藩4代)藩主
- 1718~1719
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- 先代:
- 浅野長澄
- 次代:
- 浅野長寔