岩本徹三
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岩本 徹三(いわもと てつぞう1916年(大正5年)-1955年(昭和30年)5月)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の零戦搭乗員。島根県出身で、最終階級は中尉。太平洋戦争時の日米パイロットの中で唯一200機を超える最終撃墜数202機(自称)を有する撃墜王(エース・パイロット)である。撃墜数については異論も多いが、戦闘機搭乗員として日中戦争から太平洋戦争終戦まで7年に及ぶ最前線での戦闘飛行経験の持ち主は、岩本徹三以外に存在しない。
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[編集] 日中戦争~太平洋戦争開戦まで
警察官の父親の元に生まれ、少年時代に樺太へ渡り、開墾作業を手伝って育った。幼少時より利発で、特に算術に強かったという。しかし、自信家な面も持ち、教師を質問攻めにして辟易させたこともあると言われる。
益田農林学校を卒業後、農業を担って欲しいという父親の意に反して密かに海軍の水兵となり、昭和9年に呉海兵団に入団した。海軍では航空機整備兵として勤務するが、やがて操縦に興味を持ち、難関を越えて入団から二年後、第三四期操縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊した。後に大陸戦線での初陣で5機を撃墜するなど天才的な戦闘機搭乗員として知られるが、訓練生時代には着陸後にフラップを戻し忘れるなど、意外に平凡な一面も見せている。
[編集] 開戦~ラバウル、トラック島時代まで
太平洋戦争開戦時は、第一航空艦隊所属の航空母艦「瑞鶴」乗り組み員で、真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務に就いた。その後母艦と共にインド洋作戦、珊瑚海海戦と転戦後、内地に帰還、教官任務を経て北千島防備にあたる第二八一航空隊に配属される。
米軍の本格的反攻が開始されて戦況が悪化してくると、昭和18年10月、一大航空消耗戦が展開されていたラバウルに派遣され、第二〇一航空隊に編入後、同年12月にはラバウル航空隊として名高い第二〇四航空隊の一員となる(後に二五三空に異動)[1]。激しい戦いにより海軍のエース級搭乗員が次々と戦死する中、数少ない実力派の搭乗士官(飛曹長=準士官扱い)として空中指揮を担当[2]。岩本は編隊による優位高度からの一撃離脱戦法を好んだ。岩本の空戦は、常に先制攻撃、優位のうちに離脱する戦法が主流であるが、単機での格闘戦では絶対的な自信を持っていた。本人の視力は1.0とパイロットとしてそれほどよいものではないが、「敵機は見つけるもんじゃありゃせん、感じるもんよ」と述べている。戦術状況の推移全般を把握して、常に敵の機先を捉えていたことがうかがえる。邀撃戦での彼の指揮は、敵編隊を観察し有利と見た場合一気に襲撃~離脱し、逆に不利と見た場合は高度を稼ぎつつ接敵を避け、再び好機があれば襲撃を繰り返すと言った冷静かつ合理的なもので、その意味ではハルトマンなどの空戦流儀によく似ていたようだ。物量作戦をもって圧倒的な優勢を誇る米軍に対抗し、自身も142機もの撃墜を報じている。このころの岩本は、部下に対し「俺たちは基地航空隊の名にかけて、立派な戦いをして、艦隊戦闘機隊に負けぬように戦果を挙げなければ、戦死した戦友に申し訳ないぞ」と檄を飛ばし苦しい戦いを続けた。
岩本は三号爆弾による対編隊攻撃の名手としても知られた。昭和18年12月、試験的に実施した最初の攻撃で、岩本小隊は一気に30機近い敵機を同兵器により撃墜したとされる。その後も機会があるごとに熟達し、本人の言によれば、余裕のある接敵さえ適えばほぼ確実に命中できる域にまで達したという。一方他部隊では思うように戦果を挙げることが出来ず、指導要員として岩本らを寄越すよう度々要請してきたが、補給の優先順位等で含むところのあった岩本の上官は、それらの要求に頑として応じなかった。
昭和19年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島の防御を固めるため二五三空はラバウルより撤収しトラック島に移動。岩本も以後トラック島にて防空戦に従事した。ところがそれ以来部隊は一機の補充も受けることが出来なかったため、遂に可動機数不足に陥り、昭和19年6月、機材を自力で補充するべく空輸要員を内地に派遣。岩本もその一員として帰還した。当然機材受領後にトラック島に復帰する予定だったが、帰還直後に米軍のサイパン侵攻が始まり、戻るための主要空路が遮断されてしまった。このため復帰は取り止めとなり、岩本は岩国の第三三二航空隊に異動となった。
[編集] 内地への帰還~戦後まで
内地では各航空隊を転々としつつ[3]教官的役割を果たすことが多かったが、戦闘にも多数参加しており、台湾沖航空戦、フィリピン戦、沖縄戦での夜間単機強行偵察、戦艦「大和」復讐戦、鹿屋基地上空でのB-29編隊単機迎撃など多大な戦果を挙げ続けた。
岩本は理解ある上官からは厚い信頼を寄せられ、部下の下士官兵や整備兵からも愛されたと言われるが、神風特攻作戦には断固反対したと伝えられる[4]。彼と接した予科練生によれば、優しい人柄で決して乱暴はせず、それほどエライ人といった印象は受けなかったという。また、当時の海軍軍人としては珍しく長髪のままで勤務しており、自らを名刀工虎徹作の刀に見立てて救命胴衣の背中に「零戦虎徹」と大書していたと言われる。
岩国の第二〇三航空隊で終戦を迎えるが、喪失感のあまり3日ほど抜け殻のようになったと述べている。
戦後は同郷の後輩である幸子と結婚するが、戦後の世相に適応できず、職を転々とし苦しい生活を送った。1955年5月に病没。医師の誤診による敗血症が原因といわれる。享年38。
- ↑ 消耗により二〇一空が解散したため。尚、二〇四空は翌19年1月にトラック島へ後退したが、その際搭乗員と機材は第二五三航空隊に引き継いだので、岩本も以後二五三空に所属した。
- ↑ 当時の海軍戦闘機隊搭乗員は二直程度の交代勤務に就くことが多かったようだが、岩本はそのうちの一つの直全体について編隊指揮を執った。配下機数は主に可動機数の関係で上下したが、概ね20機弱から40機前後だった。なお、よく知られるドイツ空軍の実力制と異なり、日本海軍の空中指揮は実力者ではなく階級上の上官が執るという悪弊があったため、搭乗員の練度が低下した大戦中盤~終盤において、有資格者に実力が伴うか否かは正しく死活問題だった。
- ↑ 次々と引き抜かれ教官兼指揮官として勤務した。19年8月戦闘三一六飛行隊(二五二空)、19年12月戦闘三一一飛行隊(二五二空、後七〇一空に編入)、20年3月戦闘三〇三飛行隊(二八一空?)、20年6月二〇三空補充部隊。
- ↑ 彼自身は特攻任務を命じられることは無く、制空隊指揮官として特攻機の援護に当った。
[編集] 著書
- 零戦撃墜王(光人社, ISBN 476982050X)
[編集] 妻 岩本幸子の活動
岩本幸子(いわもとさちこ)は、ノンフィクション作家。夫の岩本徹三がラバウルで活躍していた頃は女学生であった。日本海軍のエースパイロットとして報道映画で紹介された岩本を見て憧れを抱くようになったという。戦後上京した際に、偶然岩本と知己となり、嫁ぐことになった。岩本との間に二児をもうけ、戦乱を生き残った岩本を助けた。戦後、岩本は海軍時代に詳細に記していた日記を公表しようとノートにしたためていたが、不運にも公表前に早世してしまう。この岩本ノートを後世に伝えようと、各方面の助力を得て出版されたのが、岩本の遺作「零戦撃墜王」である。