江藤隆美
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江藤 隆美(えとう たかみ、大正14年(1925年)4月10日 - )は、昭和、平成期の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員。小泉構造改革を批判し、いわゆる抵抗勢力の代表的な存在だった。親しい地元県議や市町村議員を動員して政治献金集めに特に熱心だったため地元の支持者の間から「たかりの江藤」「たかり屋」と皮肉めいたあだ名をつけられていた。
大正14年(1925年)4月10日、宮崎県日向市に生まれる。旧制延岡中学(現・宮崎県立延岡高等学校)を経て昭和22年(1947年)宮崎農林専門学校(現・宮崎大学)を卒業。宮崎県議会議員を経て、昭和44年(1969年)第32回衆議院議員総選挙に立候補し、当選する。「四十四年組」の一人。
若手の頃から武闘派で鳴らし、昭和48年(1973年)には青嵐会の結成にも参加した。 昭和58年(1983年)自民党国会対策委員長に就任。 昭和60年(1985年)第二次中曽根康弘再改造内閣の建設大臣として初入閣。 平成元年(1989年)6月宇野宗佑内閣で自民党幹事長代理となり、消費税、リクルート事件、宇野の女性問題と逆風が吹き荒れる中、参議院選挙に当たる。 8月海部俊樹内閣の運輸大臣に就任。 しかし、平成2年(1990年)の第39回衆議院議員総選挙に現職閣僚として落選する。 この選挙の直前には、江藤氏の年来の政敵とされてきた、黒木博元宮崎県知事の政治献金汚職疑惑の無罪判決が出ており(その後無罪は確定)このことが大きく江藤氏の落選に大きく影響したという見方もある。 いずれにせよ、その後平成5年、国政に復帰するが、中曽根派の後継を争っていた渡辺美智雄には大きく水をあけられていた。 平成5年(1993年)の第40回衆議院議員総選挙で当選し中央政界に復帰を果たすが、自民党は敗北し、政権から転落していた。
平成7年(1995年)8月村山富市改造内閣の総務庁長官に就任するが、同年11月朝鮮半島に対する日本の植民地支配に関し、「日本は悪いこともしたが、良いこともした」というオフレコ発言を巡り、批判され辞任した。 またこれと同時期に宝珠山昇防衛施設庁長官が大田昌秀沖縄県知事のアメリカ軍用地強制使用手続き代理署名拒否問題が起こった際、オフレコで村山富市首相を「頭が悪い」などと批判して辞任するなどメディアがオフレコを報じるべきか報じないべきかで当時論争になった。
自民党では、中曽根派 - 渡辺派を経て、村上・亀井派に所属。村上正邦が自民党参議院議員会長に転出し、派閥会長を退いたため、平成11年(1999年)7月、第2代会長に就任、同派は、江藤・亀井派となる。 長年、地元東九州への新幹線や高速道路網建設に執念を燃やした、と公称してきた。しかしながら、バブルの最中に、建設大臣、運輸大臣を歴任し、後にはいわゆる族議員のドンを自認すると言われる人物が、長い時間をかけたすえ、地元東九州への新幹線や高速道路の着工を政治主導で出来なかった。 その後も東九州新幹線、東九州高速道路は、交通網としてではなく、選挙の度の集票マシン的な存在として語られるのみである。また、数々の暴言からか浜田幸一から宮崎のイモムシ呼ばわりされる。 その後、いわゆる抵抗勢力の代表格として、小泉内閣の構造改革に対して批判を強める。平成15年(2003年)の総選挙には出馬せず、引退。通算で当選10回。 いわゆる「三バン」をゆずられた形で選挙に出馬した長男江藤拓氏応援のためお国入りした際、記者団に囲まれ女性記者の質問「世襲に対する批判がありますが?」にたいし、「世襲とはなにごとじゃ、ばかもん!!」と激怒しマスコミへの嫌悪感を露わにする。先のオフレコ発言をなし崩しに暴露されたこともあってのことか。
現在も志帥会(伊吹派)名誉会長として派閥会合には毎回出席している。地盤を継承した衆議院議員の江藤拓は、長男。しかし長男・拓は郵政法案に反対票を投じ公認を得られずに無所属で出馬。自民党公認候補の上杉光弘を破り見事に当選を果たす。この当選は、江藤拓氏の功績というよりも、対立候補である上杉光弘の立候補にいたるまでの経緯の無様さが、いわば「敵失」となり、優位に働いたとも言われる。
著書に『真の悪役が日本を救う』(講談社 2003年)がある。