檀君朝鮮
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檀君朝鮮(だんくんちょうせん)は、檀君王倹が紀元前2333年に開いたとされる伝説の国の名前。
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[編集] 内容
高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に魏書からの引用として見えるのが文献上の初出である。ただし、陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』など、現存する魏書には該当する記述がない。また『三国遺事』以前の古書・古記録によっても実在を立証できないため、檀君神話を自国の民族主義史観の拠り所としている韓国・北朝鮮を除いては、檀君朝鮮は歴史的存在と見なされていない。なお、偽書とされる『桓檀古記』、『揆園史話』には『三国遺事』の記述とは異なる記述がなされている。
[編集] 『三国遺事』
『三国遺事』が引用する「朝鮮古記」によれば、桓因(환인、ファンイン。桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(환웅、ファンウン)が天下に興味を持ち人間界に興味を持った。そのため、桓因は桓雄に天符印を3つ与えた。桓雄は太伯山の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこし、人間の地を360年余り治めた。
その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。
虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ウンニョ、웅녀)になった。しかし、配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮(조선)と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、壇君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。
[編集] 『帝王韻記』
高麗末期の李承休による『帝王韻記』に、王倹が1028年後に隠退したという。
[編集] 偽書とされるもの
[編集] 『桓檀古記』
『桓檀古記』はそれぞれ内容の異なる文書の集まりである。そのうち主な檀君朝鮮関連を挙げる。
- 「三聖記」上編:桓雄までは『三国遺事』とほぼ同じ。桓雄の子ではない神人王倹が檀の木の岡に降り阿斯達を都とし朝鮮と号した。檀君王倹である。妻は河伯の娘。朝鮮から大扶餘と号した。47代2096年まで続いた。
- 「三聖記」下編:桓雄は桓因ではなく安巴堅の庶子。桓雄の息子の檀君王倹は有帳という名で別伝では倍達王倹といった。その子は居佛理のち18代居佛まで続いた。
- 「檀君世紀」:桓因の子檀君王倹の子孫47代世古列加までの史書
- 「太白逸史」の「三韓管境本紀」:桓雄の子ではない神人王倹が国を三韓に分け辰韓を治めた。桓雄は阿斯達を国とし朝鮮と号した。神人王倹は馬韓を熊伯多、番韓を蚩尤男(蚩尤の末裔という)に治めさせた。
[編集] 王倹について
平壌の古名として王険が『史記』朝鮮列伝に出てくる。『三国史記』高句麗本紀第五東川王の条には人名として王倹という語が出てくるが、平壌にかつて住んでいた仙人の名前としてであって、檀君という名称は全く書かれていない。
[編集] 現代の檀君朝鮮
檀君朝鮮は朝鮮民族と朝鮮国家の祖として、民族意識と愛国心向上のため、南北両国家共に教育に取り入れている。とりわけ朝鮮民主主義人民共和国では「朝鮮」の祖ということで熱心に教育し、実在の人物である可能性がほとんどないにもかかわらず、1993年に檀君の墓を発見したと公言(実は高句麗時代の古墳)し、その地に「檀君陵」なるコンクリート製の建造物を建設した。大韓民国の国定教科書でも「檀君の古朝鮮建国は、我が国の歴史が古いことを表している」などと書かれており、はっきりと「史実」という言葉をもちいて教えている。また徴兵制度で入隊した若者に対して行われる軍の愛国教育の中で、東アジアの広範囲を征服したという伝説を大きく取り上げている。また、『桓檀古記』(偽書とされる)に含まれる「檀君世紀」により檀君の即位した紀元前2333年を元年とする檀君紀元(檀紀)も1961年まで公的にグレゴリオ暦と併用されていた。一部では現在も使用されている。