楠木正儀
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楠木正儀(くすのき まさのり、生年不詳 - 元中6年/康応元年(1389年)?)は、南北朝時代の武将。楠木正成の三男。楠木正行、正時の弟。子に楠木正勝。
1348年(正平3年/貞和4年)、四條畷の戦いにおいて兄楠木正行・正時が高師直の軍に敗れて戦死すると、楠木氏の家督を継ぎ、南朝の先鋒武将となる。正平一統後の1352年(正平7年/文和元年)に北畠顕信、千種顕経らとともに足利義詮を駆逐して京都を奪還し、畿内各地に兵を広げ、摂津国・河内国において勢力を拡大する。室町幕府の政争に敗れて失脚し南朝に降った幕府執事の細川清氏とともに、一時は京都を奪還する。1367年(正平22年/貞治6年)に、幕府管領の細川頼之を仲介に北朝と和睦を結ぼうとするが果たせなかった。翌年、後村上天皇が没した後に即位した長慶天皇は北朝に対して強硬的な人物であったとされ、1369年(正平24年/応安元年)に正儀が細川頼之を介して将軍足利義満に帰服し、北朝方に投降する。このため、楠木一族から反発を買い、攻められたが、細川氏を主力とした援軍に援けられた。1379年の康暦の政変により頼之が失脚すると、1382年に再び南朝に帰参し、参議に任じられた。その後は史料に名を残していない。
近世になり、水戸学を中心とする南朝史観においては、正儀の北朝投降は疑われていた。
『太平記』には、京都占領の際の北朝方の佐々木道誉との邸を巡るエピソードなどが記されている。
[編集] 子孫
彼の子孫はその後、播磨国の平木により、平木氏を名乗るといい、現在に至っていると称する。
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