梁川城
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[編集] 概要
梁川城(やながわじょう)は、福島県伊達市梁川町(旧伊達郡梁川町)鶴ヶ岡にあった城。鎌倉時代初期に築城されたと思われる。鶴ヶ城と呼ばれることもあるが、現在ではこの呼称はほとんど知られていない。(福島県では鶴ヶ城といえば会津若松市にある若松城を意味することが一般的)
[編集] 歴史
[編集] 中世
一説には文治5年(1189年)に伊達氏の伊達郡入りとともに築城されたともいうが、文献に見える当時の館がその後の梁川城である確証は乏しく、明確なのは室町時代の応永33年(1426年)以降である。伊達氏は源頼朝の奥州征伐で功を立て、源頼朝に伊達郡を賜った関東武士で、伊達郡に入植して伊達氏を名乗るようになった。梁川城のある伊達郡は鎌倉時代以降伊達氏の本拠地で、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、梁川城が伊達氏の居城だったと考えられている。 城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近辺には伊達五山と称される寺院があったと言われている。 伊達氏の居城が桑折西山城、さらには米沢城に移った後も梁川城は領内の重要拠点として機能し、一族や有力家臣が城主となっていた。 ちなみに独眼竜伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川だった。
[編集] 安土桃山時代
奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主…蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義によるものと考えられる。本丸の物見櫓跡の石垣は穴太積で、土塁は中世に作られた池の導水路を埋めていることから、蒲生・上杉時代にはかなり大きな改修ががあったと推測できる。北三の丸の高い土塁、広い堀などもこの時代の増築と考えられる。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いに絡んで、徳川方の伊達政宗と石田方の上杉景勝の戦いが現在の福島盆地で行われ、梁川城を攻めた伊達勢は簡単に敗退してしまった。須田長義の軍略のみならず、梁川城が伊達氏時代よりもはるかに堅固に改修されたためとも思われる。なお、福島盆地を中心とした伊達勢と上杉勢の主戦闘(松川の戦い)は一進一退の攻防となったが、最終的に政宗は敗れて先祖伝来の地の奪還はならなかった。
[編集] 江戸時代
江戸幕府成立後も伊達郡は引き続き上杉氏領となり、梁川城には上杉氏の家臣が置かれた。
寛文4年(1664年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、本来ならば改易になるところを吉良上野介の長男・綱憲を養子を迎えることによって上杉家の存続が認められるという騒動の際に、上杉領は30万石から15万石となり、梁川城を含む伊達郡は没収され、天領となった。この時、梁川城は廃城となった。しかし、城の一部はその後も陣屋として使用されている。江戸時代中期以降の梁川は天領となったり梁川藩となったり、めまぐるしく、幕末には2度にわたって松前藩ともなった。対ロシア政策のため、幕府が蝦夷地(北海道)の松前藩を梁川に移封したり戻したり繰り返したためである。そのため、梁川城に関する資料や絵図は松前に伝えられたものも多い。
[編集] 現状
梁川城趾には本丸跡に伊達市立梁川小学校、本丸を北~東~南に取り囲む二の丸のうち、東二の丸跡に浅間神社と伊達市立梁川幼稚園と伊達市立梁川中学校、南二の丸跡に福島県立梁川高等学校がある。本丸の東~二の丸の北を取り囲む三の丸は江戸時代に陣屋などに使われたが、現在は住宅地となり、個人宅や市営住宅が建ち並ぶ。梁川城趾および周囲には土塁や堀の跡、城下町ならではの見通しの悪いクランク型の道なども残っているが、宅地造成や再開発で急速に失われつつある。一方で、地名には見附(みつけ)、元陣内(もとじんない)、右城町(うしろまち)、大町、中町、内町、町裏など、城下町の名残となる地名が多い。
昭和53年(1978年)から昭和56年(1981年)にかけて旧本丸跡である梁川小学校校庭の発掘調査を行い、校庭の一角に中世庭園「心字の池」を復元した。伊達氏が室町幕府と結びつきを強めていた時代のもので、一説によると東日本で唯一の中世庭園と言われる。また、福島県会津若松市の福島県立博物館には梁川城の復元模型が収蔵されている。
[編集] 関連項目
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