柳川次郎
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柳川次郎(やながわ じろう、梁 元鍚(ヤン ウォンソク)、韓国人1923年-1991年12月12日)は、ヤクザ、暴力団 柳川組初代組長。
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[編集] 生い立ち
1923年釜山で生まれ、1930年に家族と来日した。1941年まで大阪府で生活し、この時期、後に柳川組二代目となる同胞の在日韓国人谷川康太郎(本名は康東華:カン ドンファ)と知り合った。一家はなかば強制労働に借り出されるような形で大分県の軍需工場近くに移住した。 1945年に敗戦を迎えると、一家は帰国をするはずであったが、柳川だけは出国直前に喧嘩に巻き込まれ逮捕されたため取り残された。
[編集] 戦後の混乱期から鬼頭組との戦闘
身寄りがなくなった柳川は、大阪に戻って谷川と合流し愚連隊に身を投じた。1946年闇市でトラブルを起こし強盗罪で1952年まで服役した。出所後は大分県中津市のテキ屋吉森一家の客分となる。1953年頃、石井一郎・石井組組長(後の三代目山口組初代石井組組長)と共に、大長健一・大長組組長の舎弟となった。当時、吉森一家は石井一郎からカスリを取っていたが、大長健一が「自分の舎弟・石井一郎からカスリを取ることは許さん」と吉森一家に通告したことから、大長組と吉森一家が激しく対立することとなった。板ばさみとなった柳川次郎は断指して、吉森一家に詫びを入れた。この侘びが決め手となり、大長健一は主張を押し通し、結局吉森一家から石井一郎のカスリを放棄させた。この事件をきっかけに柳川次郎は再度大阪に戻り、キタで不良の頭目となり、柳川一派を形成した。一時、諏訪一家の総裁だった諏訪健治大親分の若衆(大阪 支部長)であった。
1958年には酒梅組の梅野国生(後に七二の林久五郎の跡目を継承する)の客分となった。同年には西成地区の縄張り争いで、同じ酒梅組系列だった西成最大の暴力団鬼頭組(組員100名)に対し、わずか8人で日本刀を手に殴り込んで名を上げた。
この事件で柳川は収監されたが9個月の服役で保釈された。そして出所後の1958年11月、大阪市北区堂山で柳川組を新たに創設した。
[編集] 柳川組創設 山口組随一の武闘派となる
その頃全国制覇の野望に燃える三代目山口組組長田岡一雄は、1959年4月大阪府堺市ㆍ兵寺の臨海工業地帶造成工事の荷役ㆍ勞動供給權獨占を目指して勢力を拡大させていた。そのような折、柳川が山口組若頭の地道行雄の目に留まり、1959年6月、盃を交わして地道の舎弟となった。
翌年大阪で明友会事件が起こると、柳川は攻撃部隊の主力として活躍し、逮捕者24人を出しながらも活躍が認められ、1960年12月13日山口組創立記念日に柳川と 石井一郎(石井一家初代組長)は 三代目山口組(田岡一雄組長)の直参となった。
昭和36年(1961年)に、奈良県の土木業者を集めて、右翼団体「大義同志会」を設立し、奈良に進出。以降、全国最大の組織山口組の全国制覇第一先鋒部隊として、冷酷無惨な戦闘力で活躍し、柳川組と 山口組の勢力を大きく拡大させた。昭和37年(1962年)には、柳川組若頭の谷川康太郎が中沢組・福島三郎を舎弟にして、石川県に進出した。昭和38年(1963年)には、長岡宗一(通称:ジャッキー)や石間春夫(通称:北海のライオン。後の五代目山口組舎弟・誠友会会長)、谷内二三男が率いる北海道同志会を傘下に収めた。
1963年に柳川は債権取立てに絡んだ恐喝容疑で逮捕され前刑とあわせて長期の服役を余儀なくされると、組の跡目を決定する必要に迫られた。本来なら九州時代からの舎弟である野沢義太郎だが、頭の切れに行動力を併せ持つ谷川康太郎(本名は康東華)に譲った。谷川康太郎の二代目襲名披露式は、昭和39年(1964年)7月26日に、兵庫県有馬温泉のホテル池の坊「満月城」で執り行われた。
その後も勢力拡大を続ける柳川組は、最盛期に1700人もの組員を抱え(準構成員含むと約2800名)二次団体でありながら単独で警視庁指定全國広域5大暴力団に指定されるまでになった。それに対応する形で、政府の暴力団頭目の逮捕と組織の解散を目的とした第一次頂上作戦が立案された。頂上作戦の結果、1965年には錦政会、本多会、住吉会、北星会、松葉会が解散に追い込まれた。
[編集] 第一次頂上作戦以降
1969年以降警察の頂上作戦の後半は、山口組(田岡一雄組長)にターゲットを絞って実施された。 柳川組は第一次頂上作戦に当たって、警察の集中取締りの対象となり、柳川組だけで逮捕者164人をだした。
頂上作戦以降も大阪府警の集中取締りの対象になり、ついに柳川次郎は収監中の名古屋刑務所で柳川組解散を決意した。1969年4月8日に、柳川次郎は二代目柳川組谷川康太郎組長を大阪刑務所で説得し(谷川康太郎は大阪刑務所に収監されていた)、解散の同意を取り付けた。谷川康太郎が署名した「解散声明書」及び、柳川次郎が署名した「解散同意書」の日付は、昭和44年4月9日となっている。これをもって 柳川組 本家・山口組に対する 第一次頂上作戦は終結することとなった。
柳川自身は本家に無断で組を解散したことで絶縁処分されたため、引退した。
1973年に右翼団体・亜細亜民族同盟を創立した。日韓友愛親善会を設立し、「ある面での」日韓の親善に尽力した。亜細亜民族同盟は、柳川の死後にその政治遺産を佐野一郎(元公安調査庁調査官)が引き継いだが、佐野一郎が1999年10月に死亡した後に消滅した。
柳川次郎は、1991年12月大阪で死去。享年68才。