松登晟郎
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松登晟郎(まつのぼり しげお、1924年7月20日 - 1986年4月21日)は、千葉県東葛飾郡松戸町(現在の松戸市)出身で大山部屋所属の元大相撲力士。本名は永井福太郎(ながい ふくたろう)。最高位は大関。身長172cm、体重154kg。
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[編集] 来歴
小学3年の時には既に体重16貫(60kg)に達し、髙登から小学校卒業の折にはぜひとも私の所に弟子入りさせてほしいと頼まれたという。その後引退して年寄・大山を襲名した髙登から再度勧誘され入門、1941年(昭和16年)1月場所で初土俵を踏んだ。四股名は故郷松戸と師匠の現役名髙登にちなんでつけられた。当時「大山親方がすごいのを連れて来たらしい」と評判になった。番付には枩曻(「昇」の「升」が「舛」)福太郎と書かれたがこれは書き手の間違いらしく後に枩登福太郎と訂正された。
三段目で活躍していた1944年(昭和19年)5月場所を最後に同年11月に徴兵に取られ、陸軍に配属される。終戦となって1945年(昭和20年)11月場所で三段目格で復帰した。しかし1948年(昭和23年)12月に実家に帰りマゲを落としてしまし、師匠に説得されて土俵に戻ることにした。1949年(昭和24年)1月場所で好成績を挙げ、同年5月場所で新十両の昇進を果たす。
1951年(昭和26年)5月場所で新入幕。1952年(昭和27年)1月場所から松登。9月場所では羽黒山から金星、1953年(昭和28年)1月場所は小結で9勝6敗、同年9月場所で関脇。1954年(昭和29年)5月場所は不調だったが場所前に入院した師匠を気遣い負けても勝利報告をしていた。しかし師匠はこれを知っていたのか10日目の朝には心配しないで思い切って取れと発言、これに勇気付けられたのか残り全部勝って9勝6敗、殊勲賞を獲得、これが効いたか大山親方の病状も快方に向かった。
1955年(昭和30年)9月場所は鏡里と最後まで優勝を争い、千秋楽に若ノ花を高々と吊り上げて土俵の外に運び13勝2敗、1敗の鏡里が千秋楽も勝ったため優勝は逃したが殊勲賞を獲得して場所後に大関へ推挙された。横綱昇進も期待されたが左足の甲を骨折して新大関の場所である1956年(昭和31年)1月場所は5勝10敗と大きく負け越した。その後も本調子は出ず5場所連続で9勝6敗が続き、クンロク大関の名で呼ばれる。同年9月より松登晟郎。
その後も糖尿病や足の故障に苦しまされ負け越しも見られるようになってきた。しかし大関の陥落基準が3場所連続負越となったため、すぐには陥落しなかった。1958年(昭和33年)1月場所は糖尿病で全休、翌3月場所も6勝9敗と負け越した。最初の角番となった同年5月場所は5勝7敗と後がなくなったが、かつて大関に同時に推挙された横綱若乃花に勝ちその勢いで8勝7敗と勝ち越してなんとか角番を脱出した。
しかし、翌7月場所、9月場所と連続負け越して、またもや11月場所は2度目の角番。またしても7敗になったところで若乃花に当てられ今度は負け6勝9敗に終わり、3場所連続負け越しで大関から陥落し、その後は平幕に腰を据えることになった。結局大関時代に2桁勝つことはなく、大関在位期間の成績は99勝102敗24休で勝率.440と散々な成績であった。
1961年(昭和36年)11月場所は前頭11枚目で4勝11敗となり幕内に残れなくなり、この場所限りに37歳で引退した。年寄名跡を持ってなく、親友である横綱・朝潮が持っていた年寄・振分を借りて協会に残った。その後師匠が亡くなり、大山に名跡変更するとともに大山部屋を継承した。ぶちかまして一気に出て行く取口は破壊力があり、特に大兵には強かったが動き回る力士や小兵は苦手だった。またその人柄から人気も高く、土俵際で1回転して向き直る癖から「マンボの松ちゃん」とのアダ名があった。
[編集] 改名歴
- 永井 福太郎(ながい まつたろう)1931年1月場所-1942年9月場所
- 枩曻 福太郎(まつのぼり -)1943年1月場所
- 枩登 福太郎(まつのぼり -)1943年5月場所-1951年9月場所
- 松登 福太郎(まつのぼり ふくたろう)1952年1月場所-1956年5月場所
- 松登 晟郎(- しげお)1956年9月場所
- 松登 晃郎(- しげお)1957年1月場所
- 松登 晟郎(- しげお)1957年3月場所-1961年11月場所
[編集] 年寄変遷
- 振分 晟郎(ふりわけ しげお)1961年11月-1962年1月
- 大山 晟郎(おおやま -)1962年1月-1986年4月