松井宗信
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松井宗信(まついむねのぶ、生年不詳 - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は遠江の国人。五郎八郎。左衛門尉。兵部少輔。遠江二俣城主。松井貞宗の子。
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[編集] 祖先概略
松井氏は清和源氏六条判官源為義の子松井冠者源維義を祖に持ち、鎌倉時代は幕府の御家人として山城国に住んだ一族(山城国葛野郡西院松井に発すと云う)。そののち建武年間に山城国の御家人松井八郎助宗は足利尊氏に味方しその将今川範国に属し、建武5年駿河国葉梨荘を与えられ、駿河守護今川氏に仕えた。その裔孫松井貞宗が遠江二俣城を与えられ遠江国の国人となる。二俣城主は貞宗の嫡男信薫、のち次男宗信へと継がれた。
[編集] 今川家臣
宗信は兄信薫が病没した享禄2年(1529年)に家督および二俣城主を継いだと推測される。今川氏輝、今川義元、今川氏真3代にわたり家臣として仕え、駿府在番衆を務めたほか、今川氏の軍略に従い各地を転戦、永禄2年(1559年)には氏真から代官職を与えられている。
[編集] 桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)、今川義元の尾張遠征に従軍し、桶狭間の戦いでは、宗信率いる一党は本陣付近に配置されていた。織田軍が強襲した際には本陣を守るため宗信らは懸命に奮戦し、ほとんどが討ち取られたと伝えられる。
[編集] その後の松井氏
宗信戦死の後、信薫の子宗親が二俣城主となったが、叛意を疑われ処罰された。この後を宗信の子宗恒が継ぐ。
今川氏の支配力が衰え、三河で独立した徳川氏が遠江へ、甲斐の武田氏が駿河へ侵攻を始める。この情勢を受け松井氏はどちらの支持勢力となるかで家中の対立が生まれ、分裂することになった。宗信の同族松井惣左衛門宗保の子宗直は、はじめ永禄11年(1568年)に二俣城にて徳川家康に服属したが、元亀3年(1572年)に来攻した武田信玄に降り、その将依田信薫に属したと思われる。しかし、武田氏衰亡と共に依田信繁も家康に味方し、松井宗直系の遠州松井氏は再び徳川氏に帰参したと思われ、以後上州丸子河原合戦で戦功をあげて徳川直参旗本松井氏となるが三河松井氏(松井忠次の系)が譜代大名となったので、これをはばかったか寛政重修諸家譜では清和源氏為義流を公称してはいない。
[編集] 中興の祖
二俣城主として今川氏の最盛期に貢献し、桶狭間の戦いで主君を守るため壮絶な戦いを繰り広げ戦死した宗信は、後世、その忠節への敬意も含め「遠江松井氏中興の祖」とも呼ばれる。現在、桶狭間古戦場がある長福寺(愛知県名古屋市緑区)と、天竜院(静岡県磐田市)に墓碑がある。
大日本帝国陸軍大将の松井石根はこの松井氏の子孫で、先祖、特に宗信の遺業を敬い、たびたび墓碑に訪れ供養をしたという。