松井宗恒
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松井宗恒(まついむねつね、? - 元亀3年(1572年)?)は戦国時代の武将。通称は八郎・和泉守・山城守など。松井宗信の子。
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いにて今川義元と共に父宗信も戦死。それに伴い同年12月、その家督及び跡式を継ぐことを認める文書(判物)数通を今川氏真より受給(土佐国蠧簡集残編集(三)所収文書)した。これらによれば父宗信は戦死時に左衛門佐と称しまた宗恒は八郎と称したことが判る。
さらに、父より引き継いだ寄子の武士は57名であったことも知れる。その後、居城の二俣城は永禄11年(1568年)12月、徳川家康の進攻を受け、今川氏真派遣の城代鵜殿三郎と共に降参したと思われ、徳川氏に服属。しかし元亀3年(1572年)、甲州の武田信玄の攻撃に再度落城、以後の消息は知れない(あるいはこの時戦死か)。
なお、永禄11年(1568年)の徳川氏帰属の際の鵜殿三郎の寄騎衆にみえる松井和泉守は宗恒と思われ、その同僚(宗恒弟か)松井八郎三郎の子(弟とも、士林沂洄による)に松井兵部少輔(家忠日記では兵部輔)があり、その子に尾張清洲城主松平薩摩守忠吉の家臣・松井勘兵衛、その子・尾張藩名古屋町奉行の松井武兵衛と連なる。武兵衛の末裔が松井石根陸軍大将である。なお、宗恒の直系子孫は現在未詳。