東京プロレス
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東京プロレス(とうきょう-)とは、アントニオ猪木らがかつて所属した、1966年に豊登道春が起こしたプロレス団体。
[編集] 概要
1966年1月5日、力道山死去後日本プロレス社長を務めていた豊登道春が社長を辞任する。表向きは持病だった胆石の悪化で辞任という形を取ったものの、実質は解任であった。理由は豊登の放漫経営、即ち横領であったと言われる。
日本最大のプロレス団体・日プロを追放された形となった豊登は、新間信雄(元新日本プロレス役員・新間寿の父)と話し合い、東京プロレスを設立。豊登には日プロから退職金が発生していたが、ギャンブルに全て使ってしまって金が無く、連れ込み宿での旗揚げであった。無論、団体には選手がおらず、目玉として呼ぼうとしたのは、日プロ時代から豊登の子分のような存在だったアントニオ猪木であった。(猪木によると、この時点でギャンブルによる借金は五千万円近くあり、事実上東京プロレスの負債にまわされたという)
当時アメリカに遠征していた猪木だが、ハワイを訪れていた猪木に豊登が話を持ちかける。アメリカ遠征中に日プロからは何も連絡が無く、日本では常に猪木の先を走っていたジャイアント馬場の人気が沸騰していたこともあって、「俺は本当に日プロから大事にされているのか、馬場さんとの差がどんどん開いていく気がする」と疑問を持っていた猪木は参加を決意。だが、そんな状況が日プロに見過ごされる訳も無く、役員であった吉村道明がハワイに先乗りして話し合いを行っていた。猪木の回答は「No」で、これにより東京プロレス移籍が決まった形となった。この一件は俗に太平洋上の略奪と呼ばれる。
無論、一人だけでは選手は足りない為、日プロからラッシャー木村(当時は木村政雄)、マサ斎藤(当時は斎藤昌典)らを呼びつけ、何とか同年10月12日・蔵前国技館にて旗揚げするも、豊登は相変わらず資金を横領しギャンブルに使っていた。実質会社は豊登の個人会社状態となっており、そんな状態で経営もうまく行くわけが無く、有力な地方プロモーターもいない状況。全34戦を予定していた最初のシリーズは、たった20戦しか行われなかった。また、永源遙のその後の証言では、いくら現在と貨幣価値が違うとは言え、公務員が月給2万円を越えていた時代に年俸1万円だったと言う。勿論、食費のみは会社持ちではあるものの、興行収益の無さや豊登の借金、即ち会社の負債で、全く金が無かったことがこの金額からも見ることができる。
12月からの新シリーズも全く振るわず、同じ地区で日プロと興行が重なっても惨敗を繰り返した。相変わらず豊登は会社の資金を横領しており、同年末に猪木は豊登と決別。今までの東京プロレスを捨て、新会社「東京プロレス」を設立した。
[編集] 国際プロとの提携~崩壊へ
新会社を設立した後、日本に帰国し国際プロレスに参加していたヒロ・マツダ(マツダと猪木はアメリカで面識があった)と国際プロレス代表の吉原功が猪木の元を訪ね、国際への参加を要請。国際としてもマツダともう一人の目玉が欲しかったようで、猪木は了承。翌1967年1月5日に開幕した国際のシリーズは猪木ら東京プロレス(実質新東京プロレス)との合同興行という形となった。猪木は豊登らを横領で告訴すると発表したものの、これに激怒した豊登らは猪木を逆に背任で訴えると発表。泥沼の様相を呈していた状態で、その後すぐに国際とも喧嘩別れ。これにより同年2月、東京プロレスは崩壊した。猪木は一人で日プロに戻る形となり、その後斎藤は海外遠征を経て日プロへ、永源はしばらく経ってから日プロへ、木村らは国際に雇われた。
[編集] 主な参加選手
- 豊登道春
- アントニオ猪木
- 木村政雄(後のラッシャー木村)
- 斎藤昌典(後のマサ斎藤)
- 永源勝(後の永源遙)
- マンモス鈴木
- 寺西勇